要点
摂津国の戦国を動かした4つの場所
摂津の主導権は、細川から三好・織田・豊臣へどう移った?
始まりは、摂津の守護の家の内紛でした。摂津の守護は、室町幕府の管領を務める細川京兆家で、丹波などの守護も兼ねていました。細川政元が永正4年(1507)に暗殺されたのち、養子の澄元と高国が争い、澄元のあとは晴元が継いで高国と争いました。茨木・吹田・伊丹・池田などの摂津の国衆も、軍勢を率いて加わっています。この争いの中から、晴元の家臣で、阿波の有力武士・三好氏の長慶が、摂津の国衆を味方につけて台頭します。
澄元に対抗する拠点として、高国が三好山(今の高槻市)に芥川山城を築いた。昼夜300〜500人が動員された大工事だったと記録に残る。
6月4日に天王寺(今の大阪市)付近で晴元方に敗れた高国は、尼崎の大物の町に逃げ込んだが見つけ出され、8日に自害させられた。当時の人々はこの一連の出来事を「大物くずれ」と呼んだ。
長慶は摂津西半国の守護代として、越水城(今の西宮市)を預けられた。
尼崎から出陣した長慶方が江口(今の大阪市)で晴元方を破り、将軍足利義晴と晴元を京都から追って政権の座についた。
晴元方についた芥川孫十郎を攻めて降伏させ、城を接収して居城とした。
本願寺が三好三人衆と結んで挙兵し、天正8年(1580)に大坂を明け渡すまで10年にわたって信長と戦った。
荒木村重が信長に背き、有岡城・尼崎城・花熊城で戦ったのち、西へ逃れた。
有岡城は名を伊丹城に戻され、池田恒興の嫡子之助が新しい城主として入った。
尼崎に入った戸田氏鉄が、江戸幕府の支援を受けて新しい城を築いた。
細川・三好は、摂津のどこから畿内を動かした?
中心になったのは高槻の芥川山城です。細川晴元が天文2年(1533)から同5年にかけてこの城に長く滞在し、京都の公家たちも家来を遣わしてきたこの時期、城は摂津の守護所(守護が自分の国に置いた政治の拠点)にあたる場所になりました。三好長慶はここを居城にして、将軍を立てずに自分の名で畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)に号令し、永禄3年(1560)に河内の飯盛城へ移ったあとも、城は子の義興が継ぎました。
芥川山城(高槻市)
芥川山城は東西約500m・南北約400mに及び、高槻市はその規模を大阪府下で最大級としています。城には松永久秀ら長慶の重臣や奉行人が常住し、長慶は永禄2年(1559)、城の下の真上村と郡家村の水争いを裁きました。主郭の発掘では、床を張った部屋が4つ以上ある礎石建物が見つかっています。
越水城(西宮市)
長慶が預かった越水城は、堀・壁・土居・矢倉を備えた「本城」のまわりに「外城」を構えて家臣団の屋敷を置き、西宮にはそのほかの家人たちを住まわせた城と伝わり、城下町の前ぶれともいわれます。
富松城(尼崎市)
富松城には、高さ4m・根元の幅約11mの土塁が鍵の手に数十mにわたって残ります。土豪の館としては大きすぎることから、守護クラスの武将が一国規模の戦争のときに使った城と考えられています。16世紀の大きな戦いでは、軍勢がくり返しここに入りました。
なぜ尼崎のまわりで戦いがくり返された?
兵庫や尼崎に上陸した軍勢は、西国街道を通れば一両日で京都に着いたからです。そのため京都を押さえる側は、尼崎付近で敵を打ち破ろうとしました。細川澄元の軍勢は本国の阿波(今の徳島県)から兵庫・尼崎に上陸して攻め上り、永正16年(1519)の冬には、高国方が籠もる越水城を澄元方が攻め、救援に来た高国方は池田城(今の池田市)を本陣に昆陽・富松・武庫などに陣を張りました。
西国街道
西国街道は、京都と兵庫津を結ぶ当時もっとも重要な街道のひとつでした。伊丹・池田の城下町はこの街道に近い要所にあり、芥川山城からいちばん近い町場も、約3.5km離れた街道沿いの芥川宿でした。
尼崎
三好氏は尼崎を阿波からの上陸地にし、兵庫・淡路・堺へ兵を動かす中継点としても使いました。永禄元年(1558)には長慶・実休・安宅冬康・十河一存・義興ら一族が尼崎に集まっています。
兵庫津
兵庫津は室町時代に遣明船が発着した港でした。天正9年(1581)に池田恒興が兵庫城を築き、町の外まわりに土塁と堀をめぐらせて、兵庫は数年のあいだ城下町になりましたが、このころ国際貿易の舞台はすでに堺に移っていました。
本願寺は、摂津にどう根を張っていた?
本願寺は大坂に堀と塀で囲んだ寺内町(寺の境内に商人などが住む町)を持ち、摂津の村々にも門徒の道場が広がっていました。
大坂の寺内町
明応5年(1496)、蓮如は「摂州東成郡生玉之庄内大坂」に寺院を建て、その境内の寺内町が「大坂」という町の始まりになりました。寺のあった上町台地は湿地に囲まれ、北を淀川の本流が流れる天然の要害で、淀川をさかのぼれば京都に通じました。
村々の道場
蓮如は文明8年(1476)ごろ富田(今の高槻市)に道場を開き、これが富田寺内町の始まりになりました。吹田では16世紀半ばごろから、いくつかの村に本願寺から阿弥陀如来の絵像が与えられ、真宗の道場が育ちます。富松でも、村の有力者が自宅を道場にしていました。
天文の一向一揆
細川晴元が政権を握ると本願寺と対立し、天文2年(1533)には一揆が尼崎の大物で武家方に大勝しました。翌年には椋橋・潮江で、伊丹氏・池田氏ら摂津の国衆を破っています。富田の道場も、天文元年(1532)に法華一揆に焼かれました。
石山合戦と大坂湾
天正4年(1576)7月、毛利氏は小早川隆景の兵船を主力とする900艘と伝わる船団で本願寺に兵糧を運ぼうとし、信長は住吉・尼崎などに水軍を置いて迎え撃ちました。木津川口から尼崎沖が海戦の場になりました。天正8年(1580)、顕如は勅命による講和で大坂を退き、寺内町は焼けました。
荒木村重は、有岡城でどう戦い、どう敗れた?
村重は信長配下の主力として摂津一国の支配を任されていましたが、天正6年(1578)10月、本願寺・毛利氏と通じて信長に背きました。籠もった有岡城は、天正2年(1574)11月に村重が伊丹氏にかわって伊丹城に入り、名を改めて造り直した城で、侍町と町屋まで東西800m・南北1,700mを堀と土塁で囲んだ惣構(城下ごと囲む城)でした。主郭の石垣には仏教に関わる転用石が積み込まれ、あわただしく石材を集めたようすがうかがえます。
信長は小屋野(昆陽)に陣を移して総攻撃をかけたが有岡城は落ちず、古池田(今の池田市)に本陣を移して大軍で城を囲んだ。
村重は家臣5〜6人を連れて城を抜け出し、嫡男村次のいる尼崎城に入った。ここから毛利軍などに援軍を求めたことが、村重の書状から分かっている。
滝川一益の手で城内から内通者が出て、10月に上臈塚砦から信長軍が入り、侍町に火をかけた。11月、有岡城は落ちた。
尼崎城と花熊城を明け渡せば人質を助けるという信長の説得に村重は応じず、妻子ら荒木一族は京都の六条河原で処刑され、家臣らは七松(今の尼崎市)で殺されたとされる。
花熊城(今の神戸市中央区。花隈城とも書く)が落ち、村重は毛利軍の撤退とともに西へ逃れた。のちに剃髪して道薫と名のったとみられ、天正11年(1583)の茶会記にその名が見える。
摂津国から、次に読む
芥川山城
高国の築城から、1568年の信長入城、和田惟政の時代までを城の側から追う。
江口の戦い
天文18年(1549)、長慶が晴元方を破り、将軍と晴元を京都から追った一戦。
石山本願寺(大坂本願寺)
証如が本拠とした大坂御坊と寺内町の姿を、寺の側から詳しく。
第一次木津川口の戦い
天正4年(1576)7月、毛利の船団が大坂へ兵糧を運び込もうとした海戦。
荒木村重
有岡城を出たあとも尼崎城・花熊城で戦い続けた武将の生涯。
兵庫津
遣明船の港から、天正9年(1581)に池田恒興の城下町になった兵庫の町。
大阪城(大坂城)
天正11年(1583)に本願寺の跡で始まった築城と、豊臣家が滅んだ大坂の陣。
阿波国
細川澄元が攻め上ってきた本国で、三好氏が出た国。
河内国
永禄3年(1560)に長慶が芥川山城から移った飯盛城のある国。
参考にした資料
- 高槻市「続日本100名城 芥川山城跡」(細川京兆家が管領を務め摂津・丹波の守護を兼ねたこと・高国が1515〜1516年に澄元に対抗して築城し300〜500人が動員されたこと・晴元が1533〜1536年に長期滞在し守護所に相当したこと・1553年に長慶が芥川孫十郎を降して居城としたこと・長慶が将軍を擁立せず自分の名で畿内に号令し真上村と郡家村の水争いを裁いたこと・松永久秀ら重臣が常住したこと・1560年の飯盛城移転後は義興が継いだこと・1568年の信長入城と和田惟政・城の範囲が東西約500m×南北約400mで、規模は大阪府下で最大級とされること・主郭の礎石建物・芥川宿までの距離)
- 高槻市立しろあと歴史館「年表」(1476年ごろ蓮如が富田道場を開き富田寺内町が始まったこと・1532年に法華一揆が富田道場を焼いたこと・1559年の水論の裁定・1560年の飯盛城移転・1568年の信長の芥川入城後の入洛・1578年に高山右近が村重方となり投降したこと)
- 尼崎市立歴史博物館「Web版 図説尼崎の歴史 中世編 戦乱と城」(1507年の政元暗殺と澄元・高国の争い・澄元方が阿波から兵庫・尼崎に上陸したこと・1519〜1520年の越水城をめぐる布陣・1531年の大物くずれ・1533〜1534年の一揆の勝利・西国街道で一両日で京都に着くため尼崎付近が最前線になったこと・1549年に尼崎から出陣した長慶方が江口で勝ったこと・三好氏が尼崎を上陸地と中継点にし1558年に一族が参会したこと・富松城の土塁と公的城郭としての性格・富松の道場)
- 尼崎市立歴史博物館 apedia「三好長慶」(1539年に摂津西半国守護代として越水城を預けられたこと)
- 尼崎市立歴史博物館 apedia「石山本願寺合戦」(1570年に本願寺が三好三人衆と結んで挙兵し1580年まで10年続いたこと・1576年7月に毛利氏が小早川隆景の兵船を主力とする900艘を送り信長が住吉・尼崎などに水軍を置いたこと・木津川口から尼崎沖が海戦場になったこと)
- 西宮市「西宮小史」(越水城が本城と外城を構え家臣団の屋敷を置き、城下町の前駆といわれること)
- 伊丹市「有岡城跡」(1574年11月に村重が伊丹氏にかわって入城し有岡城と改めたこと・惣構の範囲・嫡子村次・1583年に之助が美濃へ移り伊丹が秀吉の直轄領になったこと)
- 伊丹市「【第2回】有岡城で織田信長と戦った?!」(村重が摂津一国の支配を任されていたこと・1578年10月の謀叛と使者による説得・11月の中川清秀と高山右近の降伏・12月の総攻撃と古池田への本陣移動・1579年9月の尼崎城入りと援軍要請・10月の内通と11月の落城・12月の荒木一族の処刑・1580年7月の花熊城落城)
- 伊丹市「【第4回】戦いに敗れて~その後の有岡城~」(1580年8月に城名が伊丹城に戻り恒興の嫡子之助が城主として入ったこと・村重が有岡城落城後も尼崎城・花熊城で戦い続けたこと・村重が道薫と号し1583年の茶会記に名が見えること)
- 兵庫県立歴史博物館「ひょうごのお城 有岡城」(主郭の石垣に仏教関連の転用石が積み込まれ、あわただしく石材を集めたようすがうかがえること)
- 兵庫県立歴史博物館「ひょうごのお城 尼崎城」(1617年に入封した戸田氏鉄が江戸幕府の支援を受けて新しく城を築いたこと)
- 神戸市兵庫区「尊氏 正成と戦の時代」(1580年に花隈城が落ち、1581年に池田恒興がその遺材で兵庫城を築き、町の外郭に土塁と堀をめぐらせて兵庫が数年間城下町になったこと)
- 兵庫県「県域の歴史」(兵庫県域に摂津の西部が含まれること・兵庫津が室町時代に遣明船の発着港となり、兵庫城のころには国際貿易の舞台が堺に移っていたこと)
- 兵庫県「阪神北地域の紹介」(兵庫県南東部の阪神北地域がかつての摂津国であること)
- レファレンス協同データベース(豊中市立図書館)「北摂」の定義(北摂が旧摂津国の北部を指し、今の北大阪にあたること)
- 大阪市中央区「石山(大坂)本願寺推定地」(1532年に山科本願寺が焼かれ1533年に証如が大坂を本拠としたこと・上町台地が湿地と淀川に囲まれた要害で淀川で京都に通じたこと・顕如が勅命による講和で退去したこと・1583年の大坂城築城開始)
- 大阪市中央区「大阪城」(関ヶ原の戦いのあと豊臣家が摂津・河内65万石の大名になったこと・大坂の陣の2度の戦いで豊臣家が滅び大坂城が焼失したこと)
- 大阪市史編纂所(大阪市立図書館)「中世・近世の大坂」(1496年に蓮如が「摂州東成郡生玉之庄内大坂」に寺院を建て寺内町が大坂の町の始まりになったこと・寺内町が堀と塀で囲まれていたこと・1580年8月の明け渡しと寺内町の焼失・1583年の築城で寺内町の外側に城下町がつくられたこと)
- 吹田市立博物館「戦乱の吹田」(茨木・吹田・伊丹・池田など摂津の国人が細川家の争いに加わったこと・16世紀半ばごろから惣村に本願寺の絵像が与えられ真宗の道場が発展したこと)