旧国 / 畿内きない / 今の大阪府北部・大阪市と兵庫県南東部

摂津国せっつのくに

摂津国(せっつのくに)は、今の大阪府北部(北摂)と大阪市の中心部、そして尼崎市・伊丹市・西宮市などの兵庫県南東部にあたる国です。戦国時代の摂津は、細川家の内紛、三好長慶みよし ながよしの台頭、本願寺と織田信長おだ のぶながの石山合戦、荒木村重の謀叛と大きな戦いの舞台になり続け、最後に豊臣秀吉とよとみ ひでよしが大坂城を築きました。

要点

摂津国の戦国を動かした4つの場所

  • 芥川山城(高槻市):細川晴元ほそかわ はるもとのもとで摂津の守護所にあたる場所になり、のちに三好政権の本拠になった山城。
  • 尼崎・兵庫:西国街道で京都まで一両日の上陸地。三好氏は堺と並んで尼崎を大阪湾支配の拠点にした。
  • 大坂:天文2年(1533)から本願寺の本拠。堀と塀で囲んだ寺内町じないまちを構え、織田信長と10年戦った。
  • 有岡城(伊丹市):荒木村重が伊丹城を造り直し、侍町と町屋まで堀と土塁で囲んだ城。

摂津の主導権は、細川から三好・織田・豊臣へどう移った?

始まりは、摂津の守護の家の内紛でした。摂津の守護は、室町幕府の管領を務める細川京兆家で、丹波などの守護も兼ねていました。細川政元ほそかわ まさもとが永正4年(1507)に暗殺されたのち、養子の澄元と高国が争い、澄元のあとは晴元が継いで高国と争いました。茨木・吹田・伊丹・池田などの摂津の国衆くにしゅうも、軍勢を率いて加わっています。この争いの中から、晴元の家臣で、阿波の有力武士・三好氏の長慶が、摂津の国衆を味方につけて台頭します。

1515〜1516年
細川高国ほそかわ たかくに、芥川山城を築く

澄元に対抗する拠点として、高国が三好山(今の高槻市)に芥川山城を築いた。昼夜300〜500人が動員された大工事だったと記録に残る。

1531年6月
大物くずれ

6月4日に天王寺(今の大阪市)付近で晴元方に敗れた高国は、尼崎の大物だいもつの町に逃げ込んだが見つけ出され、8日に自害させられた。当時の人々はこの一連の出来事を「大物くずれ」と呼んだ。

1533年
本願寺、大坂を本拠にする

前年に六角氏と法華宗に山科本願寺(今の京都市山科区)を焼かれた証如が、大坂御坊(のちの石山本願寺)を本拠とした。

1539年
三好長慶、越水城を預かる

長慶は摂津西半国の守護代として、越水こしみず城(今の西宮市)を預けられた。

1549年
江口の戦い

尼崎から出陣した長慶方が江口(今の大阪市)で晴元方を破り、将軍足利義晴と晴元を京都から追って政権の座についた。

1553年
長慶、芥川山城に入る

晴元方についた芥川孫十郎を攻めて降伏させ、城を接収して居城とした。

1568年
織田信長、芥川山城に入る

足利義昭あしかが よしあきとともに京都を目指す信長が、三好一族を追って芥川山城に入り、そのあと上洛した。城には義昭の重臣・和田惟政わだ これまさが入った。

1570〜1580年
石山合戦

本願寺が三好三人衆と結んで挙兵し、天正8年(1580)に大坂を明け渡すまで10年にわたって信長と戦った。

1578〜1580年
有岡城の戦い

荒木村重が信長に背き、有岡城・尼崎城・花熊城で戦ったのち、西へ逃れた。

1580年8月
有岡城、伊丹城に戻る

有岡城は名を伊丹城に戻され、池田恒興いけだ つねおきの嫡子之助ゆきすけが新しい城主として入った。

1583年
大坂城の築城が始まる

本能寺の変ののち政権を握った豊臣秀吉が、本願寺の跡地で築城を始め、寺内町の外側に新しい城下町をつくった。同じ年、之助が美濃へ移り、伊丹は秀吉の直轄領になった。

1614〜1615年
大坂の陣

関ヶ原の戦いのあと摂津・河内65万石の大名になっていた豊臣家が、2度の戦いを経て滅び、大坂城は焼け落ちた。

1617年
尼崎城の築城

尼崎に入った戸田氏鉄とだ うじかねが、江戸幕府の支援を受けて新しい城を築いた。

細川・三好は、摂津のどこから畿内を動かした?

中心になったのは高槻の芥川山城です。細川晴元が天文2年(1533)から同5年にかけてこの城に長く滞在し、京都の公家たちも家来を遣わしてきたこの時期、城は摂津の守護所(守護が自分の国に置いた政治の拠点)にあたる場所になりました。三好長慶はここを居城にして、将軍を立てずに自分の名で畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)に号令し、永禄3年(1560)に河内の飯盛城へ移ったあとも、城は子の義興が継ぎました。

芥川山城(高槻市)

芥川山城は東西約500m・南北約400mに及び、高槻市はその規模を大阪府下で最大級としています。城には松永久秀まつなが ひさひでら長慶の重臣や奉行人が常住し、長慶は永禄2年(1559)、城の下の真上村と郡家村の水争いを裁きました。主郭の発掘では、床を張った部屋が4つ以上ある礎石建物が見つかっています。

越水城(西宮市)

長慶が預かった越水城は、堀・壁・土居・矢倉を備えた「本城」のまわりに「外城」を構えて家臣団の屋敷を置き、西宮にはそのほかの家人たちを住まわせた城と伝わり、城下町の前ぶれともいわれます。

富松城(尼崎市)

富松とまつ城には、高さ4m・根元の幅約11mの土塁が鍵の手に数十mにわたって残ります。土豪の館としては大きすぎることから、守護クラスの武将が一国規模の戦争のときに使った城と考えられています。16世紀の大きな戦いでは、軍勢がくり返しここに入りました。

なぜ尼崎のまわりで戦いがくり返された?

兵庫や尼崎に上陸した軍勢は、西国街道を通れば一両日で京都に着いたからです。そのため京都を押さえる側は、尼崎付近で敵を打ち破ろうとしました。細川澄元ほそかわ すみもとの軍勢は本国の阿波(今の徳島県)から兵庫・尼崎に上陸して攻め上り、永正16年(1519)の冬には、高国方が籠もる越水城を澄元方が攻め、救援に来た高国方は池田城(今の池田市)を本陣に昆陽こや・富松・武庫などに陣を張りました。

西国街道

西国街道は、京都と兵庫津を結ぶ当時もっとも重要な街道のひとつでした。伊丹・池田の城下町はこの街道に近い要所にあり、芥川山城からいちばん近い町場も、約3.5km離れた街道沿いの芥川宿でした。

尼崎

三好氏は尼崎を阿波からの上陸地にし、兵庫・淡路・堺へ兵を動かす中継点としても使いました。永禄元年(1558)には長慶・実休じっきゅう・安宅あたぎ冬康・十河一存そごう かずまさ・義興ら一族が尼崎に集まっています。

兵庫津

兵庫津は室町時代に遣明船が発着した港でした。天正9年(1581)に池田恒興が兵庫城を築き、町の外まわりに土塁と堀をめぐらせて、兵庫は数年のあいだ城下町になりましたが、このころ国際貿易の舞台はすでに堺に移っていました。

本願寺は、摂津にどう根を張っていた?

本願寺は大坂に堀と塀で囲んだ寺内町(寺の境内に商人などが住む町)を持ち、摂津の村々にも門徒の道場が広がっていました。

大坂の寺内町

明応5年(1496)、蓮如は「摂州東成郡生玉之庄内大坂」に寺院を建て、その境内の寺内町が「大坂」という町の始まりになりました。寺のあった上町台地は湿地に囲まれ、北を淀川の本流が流れる天然の要害で、淀川をさかのぼれば京都に通じました。

村々の道場

蓮如は文明8年(1476)ごろ富田(今の高槻市)に道場を開き、これが富田寺内町の始まりになりました。吹田では16世紀半ばごろから、いくつかの村に本願寺から阿弥陀如来の絵像が与えられ、真宗の道場が育ちます。富松でも、村の有力者が自宅を道場にしていました。

天文の一向一揆

細川晴元が政権を握ると本願寺と対立し、天文2年(1533)には一揆が尼崎の大物で武家方に大勝しました。翌年には椋橋くらはし・潮江で、伊丹氏・池田氏ら摂津の国衆を破っています。富田の道場も、天文元年(1532)に法華一揆に焼かれました。

石山合戦と大坂湾

天正4年(1576)7月、毛利氏は小早川隆景こばやかわ たかかげの兵船を主力とする900艘と伝わる船団で本願寺に兵糧を運ぼうとし、信長は住吉・尼崎などに水軍を置いて迎え撃ちました。木津川口から尼崎沖が海戦の場になりました。天正8年(1580)、顕如は勅命による講和で大坂を退き、寺内町は焼けました。

荒木村重は、有岡城でどう戦い、どう敗れた?

村重は信長配下の主力として摂津一国の支配を任されていましたが、天正6年(1578)10月、本願寺・毛利氏と通じて信長に背きました。籠もった有岡城ありおかじょうは、天正2年(1574)11月に村重が伊丹氏にかわって伊丹城に入り、名を改めて造り直した城で、侍町と町屋まで東西800m・南北1,700mを堀と土塁で囲んだ惣構そうがまえ(城下ごと囲む城)でした。主郭の石垣には仏教に関わる転用石が積み込まれ、あわただしく石材を集めたようすがうかがえます。

1578年10〜11月
説得と、中川・高山の降伏

信長は明智光秀あけち みつひで・羽柴秀吉・黒田官兵衛くろだ かんべえらを有岡城に送って説得したが、村重は応じなかった。11月には信長自身が摂津に出て、ともに背いた中川清秀なかがわ きよひで(茨木城主)と高山右近たかやま うこん(高槻城主)を降伏させた。

1578年12月
総攻撃でも落ちず

信長は小屋野(昆陽)に陣を移して総攻撃をかけたが有岡城は落ちず、古池田(今の池田市)に本陣を移して大軍で城を囲んだ。

1579年9月
村重、尼崎城へ

村重は家臣5〜6人を連れて城を抜け出し、嫡男村次むらつぐのいる尼崎城に入った。ここから毛利軍などに援軍を求めたことが、村重の書状から分かっている。

1579年10〜11月
内通と落城

滝川一益たきがわ かずますの手で城内から内通者が出て、10月に上臈塚じょうろうづか砦から信長軍が入り、侍町に火をかけた。11月、有岡城は落ちた。

1579年12月
荒木一族の処刑

尼崎城と花熊城を明け渡せば人質を助けるという信長の説得に村重は応じず、妻子ら荒木一族は京都の六条河原で処刑され、家臣らは七松(今の尼崎市)で殺されたとされる。

1580年7月
花熊城も落ちる

花熊城(今の神戸市中央区。花隈城とも書く)が落ち、村重は毛利軍の撤退とともに西へ逃れた。のちに剃髪して道薫と名のったとみられ、天正11年(1583)の茶会記にその名が見える。

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参考にした資料