「包囲網」は、一つの軍団ではない
信長包囲網という言葉から、全国の大名が同時に同じ指揮官のもとへ集まった連合軍を想像しがちです。しかし実際には、義昭が反信長勢力へ働きかけ、浅井・朝倉、本願寺、武田、毛利などがそれぞれの利害と時期で信長と対立した、複数の戦線の重なりです。
石山本願寺は、その重なりの中心の一つでした。本願寺は寺院であると同時に、寺内町、各地の門徒、紀伊の雑賀衆、毛利氏の海上支援につながる広域組織です。信長にとって石山との戦いは、一つの城を攻める戦いではなく、畿内の主導権と補給網をめぐる長期戦でした。
義昭は将軍の権威を用いて、信長に対抗する勢力へ働きかけます。
近江・越前、伊勢、東海、中国などで、別々の相手との戦いが重なります。
石山本願寺は、陸の包囲だけでは断てない海上補給網を持っていました。
包囲網と石山本願寺の流れ
- 011570年、浅井・朝倉との戦いと本願寺との対立が始まる
信長は越前へ攻め、浅井氏の離反で金ヶ崎から退却します。同じ年、石山本願寺との本格的な対立も始まり、畿内の戦線は一気に広がります。
- 02義昭が反信長勢力を結ぶ働きかけをする
将軍・足利義昭は、信長と協力しながらも次第に対立を深めます。将軍の権威は、各地の大名や本願寺と信長の関係を考える重要な軸になります。
- 031573年、義昭追放と浅井・朝倉の滅亡
信長は義昭を京都から追い、越前の朝倉氏と北近江の浅井氏を滅ぼします。包囲網の一部は崩れますが、本願寺や毛利との対立は続きます。
- 04武田との戦い、伊勢・畿内での一揆戦が重なる
東では武田氏、伊勢や畿内では一向一揆・地域勢力との戦いが続きます。信長は敵を一度に倒すのではなく、各地の戦線を順に縮めていきます。
- 051576年、毛利方が海から石山本願寺を支える
第一次木津川口の戦いで、毛利方は兵糧を大坂へ運び込みます。石山本願寺が長く抗戦できた背景には、瀬戸内から続く海上補給があります。
- 061578年、織田方が木津川口で補給路を圧迫する
第二次木津川口では、九鬼嘉隆らの織田方水軍が毛利方を退けます。海上補給が難しくなり、本願寺側の長期抗戦の条件は悪化します。
- 071580年、顕如が退去し石山合戦が終わる
朝廷の仲介もあって講和がまとまり、本願寺顕如は大坂を退去します。十年に及んだ石山本願寺との戦いが終わり、信長は畿内の主導権をさらに固めます。
包囲網と石山合戦を動かした人物
信長の敵を一つの集団として並べるより、将軍、宗教組織の宗主、海上支援を担う大名、東から迫る武田を分けて見ると、戦線の広がりが分かりやすくなります。
「寺を包囲した戦い」だけで見ない
石山本願寺は、城郭のような防御を持つ寺院でしたが、それだけでは十年も抗戦できません。寺内町、各地の門徒、地域の武装勢力、そして瀬戸内からの船団が重なって、本願寺を支えていました。
三つの読み解きポイント
- 包囲網は、同じ時期の多様な対立の重なり
義昭・浅井朝倉・本願寺・武田・毛利は、それぞれ同じ目的だけで動いたわけではありません。信長との関係と利害を個別に見ることが大切です。
- 石山は、寺・町・組織・要害だった
本願寺は宗教の本山であるとともに、人と物が集まる都市であり、各地と結ばれた組織の中心でした。
- 海が補給をつないだ
陸上を押さえても、毛利方が瀬戸内から兵糧を送れる限り、本願寺は抗戦を続けられます。木津川口の二度の戦いは、補給条件が変わる局面です。
参考にした資料
信長包囲網と石山本願寺をめぐる対立を、公開されている自治体・博物館・宗教法人・公的アーカイブの資料を参照して独自に整理しています。包囲網の範囲、各勢力の参加時期、石山合戦の個別の経過には研究上の論点があります。
包囲網から、信長の時代を広げる
本願寺を軸に、将軍・海上補給・東海の武田・中国の毛利へ広がれます。戦国後半を「信長対一人の敵」と見ず、複数の勢力がどうつながったかをたどってください。