事件・合戦ページ / 1571年9月12日・近江 比叡山と坂本

比叡山焼き討ちひえいざんやきうち

比叡山焼き討ちとは?

1571年9月12日、織田信長おだ のぶながが、前年の志賀の陣で浅井・朝倉をかくまった比叡山延暦寺えんりゃくじと、ふもとの坂本の町を攻め、根本中堂こんぽんちゅうどうをはじめ主要な堂舎を焼いた事件。

9月12日、信長の軍勢が琵琶湖を渡って坂本に上陸します。攻撃は山上ではなく、里坊さとぼうの並ぶ麓の町に集中しました。
坂本の人々は裸足のまま、日吉大社ひよしたいしゃの神体山・八王子山はちおうじやまへ逃げ上ります。攻撃はそこにも及びました。
攻撃は山上に及び、延暦寺の中心・根本中堂をはじめ主要な堂舎が焼かれます。
山麓は明智光秀の領地となり、坂本城が築かれます。延暦寺の再建は、秀吉・家康の時代まで待つことになります。

坂本への上陸——9月12日、攻撃は麓の町から始まった

前年の志賀の陣で、延暦寺は信長と戦う浅井・朝倉の軍を山にかくまい、信長の協力要請を黙殺した。「中立なら山門領さんもんりょうを返す、敵対すれば焼き払う」という警告にも応じず、和睦では山門領の安堵あんどが保証されたまま年が明けた。翌1571年8月、信長は収穫期を狙って江北の浅井領を攻め、その直後に兵を南へ回す。9月12日、信長の軍勢は坂本に上陸した。

狙われた坂本 里坊の門前町

攻撃は、山上ではなく麓の坂本に集中した。坂本は延暦寺の里坊(僧が山を下りて住む屋敷)が並ぶ門前町(大きな寺社の門前に発達した町)で、琵琶湖の水運の要でもあった。

なぜ延暦寺を かくまいだけが理由ではない

当時の延暦寺は、宗教勢力であると同時に、近江・美濃に広大な荘園しょうえんを持つ領主だった。志賀の陣への報復と敵対者への示威に加え、この力を排除することが信長の領国支配に不可欠だった、と解釈されている。

八王子山——裸足で逃げ上った人々に、攻撃が及ぶ

坂本を攻められた人々の逃げ場は、山だった。男女老若が取る物も取りあえず八王子山へ逃げ上り、社の内に逃げ籠もったと伝わる。

神の山へ 日吉大社の神体山

八王子山は、麓の日吉大社の神体山しんたいざん(神が宿るとされる山)で、山の中に社殿が置かれていた。日吉大社は延暦寺の鎮守ちんじゅ(守り神)とされた社で、寺と社は一体の関係にあった。

攻め上る軍 鬨の声が四方から

織田の兵は四方から鬨ときの声を上げて攻め上った。逃げ込んだ人々も攻撃を免れず、僧俗数千人が殺されたと伝わる。

山上の炎——根本中堂が焼け落ちる

攻撃は山上に及んだ。ただし、この日、山の上がどこまで焼けたのかは、今も議論が続いている。

語られ方 「全山が灰になった」

焼き討ちは「山をまるごと灰にし、僧も女性も子どもも皆殺しにした」事件として語られ、「仏敵」「第六天魔王だいろくてんまおう」と呼ばれる信長の姿を決定づけた。僧俗数千人という数字も同時代の記録に由来するが、記録によって幅がある。江戸時代の読み物で、さらに誇張されて広まった面がある。

発掘の実像 大規模な火災の痕跡が無い

根本中堂をはじめ主要な堂舎が焼かれたこと自体は、確かとされる。しかし延暦寺境内のこれまでの発掘では、大規模な火災の痕跡は見つかっておらず、16世紀後半の建物の跡もそれほど多くない。全山を焼き尽くすような戦闘があったのかは、発掘の事実を積み重ねて判断していく段階にある。攻撃の中心は、山上ではなく麓の坂本だったことが記録からも読み取れる。

焼き討ちのあと——光秀の坂本城と、敵将の復興支援

平安時代から、朝廷も幕府も力で抑えられなかった山が焼かれた。焼き討ちは、聖域が世俗の武力の外にあるという中世の前提を崩した事件として位置づけられている。

光秀の坂本城 山麓は織田の領地に

信長は明智光秀に志賀郡しがぐんを与え、光秀は琵琶湖に面した坂本城を築いた。延暦寺の監視と湖の水運の掌握が役目で、山門領は織田家臣の所領になった。延暦寺の再建が本格化するのは、秀吉・家康の時代になる。

敵将の復興支援 義景と日吉社

焼き討ちの直後、敵方の朝倉義景あさくら よしかげはただちに日吉社の復興に協力し、越前国中の商人に役銭やくせんを課して寄進した。焼かれた山が反信長側の結束に働いた一面を示す動きになる。

比叡山焼き討ちの疑問に答える

「比叡山」と「延暦寺」はどう違う?

比叡山は山の名前、延暦寺はその山全体を境内とする寺の名前になる。山にひとつの「延暦寺」という建物があるわけではなく、山じゅうの堂舎の総称で、山号がそのまま「比叡山」。だから「比叡山焼き討ち」と「延暦寺焼き討ち」は、同じ事件を指す。

第六天魔王って何?

仏教で、人の修行を妨げるとされる魔王のこと。焼き討ちのあと、武田信玄たけだ しんげんが天台宗の肩書きを添えて信長を非難した際、信長が「第六天魔王」と署名して返した、という逸話が伝わる。自分から名乗った肩書きというより「仏敵と呼びたければ呼べ」という切り返しで、伝承として楽しむのが適切になる。

比叡山って、今のどこ?

滋賀県大津市と京都市の境にまたがる山になる。攻められた坂本の町は、琵琶湖の西岸、山の東の麓に広がる。京都から見て鬼門(北東)にあたる山として、都を守る寺とされてきた。

現地に何か残っている?

今の根本中堂は江戸時代はじめ・寛永年間の再建で、国宝になっている。麓には日吉大社と、里坊の石垣が続く坂本の町並みが残る。また比良山ひらさんの山中には、元亀の争乱で延暦寺とともに破壊されたと伝わる寺院跡・ダンダ坊遺跡があり、石垣や庭園の跡を見ることができる。

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参考にした資料