人物ページ / 広島を築き、関ヶ原後に防長へ移った毛利家の当主

毛利輝元もうり てるもと

毛利輝元は、毛利元就もうり もとなりの孫として毛利家を継ぎ、中国地方の大領主を率いた大名です。1589年、太田川デルタに広島城の築城を始め、海と陸の交通を使える新しい城下町「広島」の基礎をつくりました。秀吉の死後は豊臣五大老の一人に数えられ、関ヶ原では西軍側の総帥として位置づけられます。敗戦後、毛利家は防長二国へ移り、広島城は福島正則の城になります。輝元を見ると、関ヶ原は岡山だけでなく広島の城主と都市の中心も入れ替えたことが分かります。

1553 - 1625毛利元就の孫広島城豊臣五大老・西軍側
毛利輝元の肖像画
毛利輝元像 / Wikimedia Commons / Public Domain

毛利輝元を理解する要点

輝元は毛利家の当主として、中国地方の広い領地を治めました。広島城を築いて本拠を移し、秀吉の死後は五大老の一人となります。関ヶ原で西軍側は敗れ、毛利家は防長二国へ移され、広島は福島正則の領地になりました。

  • 立場:毛利元就の孫
  • 注目点:広島城と城下町
  • 次につながる:関ヶ原後の防長移封

輝元を最初にどう覚える?

元就の孫

輝元は中国地方で勢力を広げた毛利元就の孫です。元就の時代につくられた大きな基盤を継ぐ当主として出発します。

広島を本拠にする

1589年、太田川デルタで広島城の築城を始めます。山城中心だった毛利家が、海陸交通の要地へ本拠を移す大きな判断です。

豊臣五大老の一人

豊臣秀吉とよとみ ひでよしの政権で、輝元は五大老の一人に数えられます。中国地方の大大名として豊臣政権を支える側にいました。

ざっくり年表

1553
毛利元就の孫として生まれます。
1560年代
毛利家の当主となり、中国地方の広い領地を率います。
1589
太田川デルタに広島城の築城を始め、「広島」と名付けたとされます。
1591ごろ
広島城の主要部分が完成し、入城します。
1598
秀吉が死去。輝元は豊臣五大老の一人に数えられます。
1600
関ヶ原の戦いで西軍側の総帥として位置づけられます。
関ヶ原後
毛利家は防長二国へ移り、広島城には福島正則ふくしま まさのりが入ります。
1625
死去します。

人物と場所を置く

毛利元就輝元の祖父。中国地方に毛利家の大きな基盤をつくった人物です。
豊臣秀吉とよとみ ひでよし輝元を五大老の一人とした主君。毛利家を豊臣政権へ組み込みます。
宇喜多秀家うきた ひでいえ同じく五大老に数えられ、関ヶ原では西軍側に立った中国地方の有力大名です。
石田三成いしだ みつなり1600年に西軍側の実務をまとめる人物。輝元は西軍の総帥として位置づけられます。
福島正則ふくしま まさのり関ヶ原後、広島城と芸備の領地を得る人物です。
広島城輝元が築城を始めた城。広島という都市の出発点になります。

なぜ広島に城をつくった?

山城から平地へ

毛利家の古い本拠は吉田郡山城よしだこおりやまじょうでした。中国地方の広い領地を治めるには、山の城だけでなく、人・物・船が動く場所に中心を置く必要がありました。

太田川デルタ

広島城は太田川のデルタに築かれます。川と海の交通を使いやすく、海陸の要地として政治・経済・軍事をまとめやすい場所でした。

城下町をつくる

城を築くことは、天守をつくるだけではありません。武家屋敷、町、道、港を整え、支配の中心をつくることです。

現在の広島へ

広島市は、輝元による城と城下町づくりを、現在の都市の基礎の一つとして位置づけています。人物ページから都市の始まりへ進めます。

西軍の総帥を、単純にしない

関ヶ原では、輝元は西軍の総帥として位置づけられます。ただし戦場にいた武将の動き、伏見・大坂・各地の城の状況、家臣団の判断が重なっており、「輝元が全てを指揮した」と一言で片付けると実態が見えにくくなります。

大事なのは、豊臣五大老の一人で中国地方の大領主だった毛利家が西軍側にいたことです。関ヶ原後に防長二国へ移されたことで、広島の城主と都市の中心まで変わりました。

広島城の城主が変わる

輝元: 広島を始める

輝元が広島城を築き、城下町の基礎をつくります。

正則: 城を広げる

関ヶ原後、福島正則が入城し、広島城の大幅な増改築と城下の整備を進めます。

改易: また城主が変わる

1619年、正則は無断修築を理由に改易されます。広島城は江戸時代のルールに入っていきます。

城主交代で時代を見る

輝元から正則への交代は、関ヶ原の結果を城と町の側から見る最も分かりやすい例です。

ここだけ覚える

  • 毛利輝元は毛利元就の孫で、中国地方の毛利家を率いた当主。
  • 1589年に広島城を築き始め、広島の城下町の基礎をつくった。
  • 豊臣五大老の一人で、関ヶ原では西軍側の総帥として位置づけられた。
  • 関ヶ原後、毛利家は防長二国へ移り、広島城は福島正則へ移った。
  • 広島城を見ると、関ヶ原が都市の中心を入れ替えたことが分かる。
注意点

輝元を読むときに気をつけたいこと

  • 「凡庸な当主」という評価は、関ヶ原の結果から逆算されている。西軍の総大将として大坂城から動かず、戦後に大幅に減封されたため、判断力を欠く人物として語られがちだが、広島城の築城、秀吉政権下での毛利氏の地位確保など、当主として果たした役割は小さくない。
  • 関ヶ原での「動かなかった」には、吉川広家きっかわ ひろいえの独断が絡む。広家が家康と内通して毛利の本領安堵を取りつけたとされるが、輝元自身は西軍の総大将として四国・九州へ出兵しており、まったく消極的だったわけではない。内通の経緯と輝元の関与の程度は、史料によって見方が異なる。
  • 元就の遺言「天下を競望せず」は、輝元の行動を縛ったのか分からない。毛利氏が天下を狙わなかったのは元就の遺訓のためとする話が有名だが、この遺訓の存在と内容には議論があり、輝元の選択を直接説明するものではない。

5問クイズ

Q1. 毛利輝元の祖父は?

A. 毛利元就です。

Q2. 輝元が築き始めた城は?

A. 広島城です。

Q3. 輝元が数えられた豊臣政権の有力者は?

A. 五大老です。

Q4. 関ヶ原後、広島城へ入った人物は?

A. 福島正則です。

Q5. 関ヶ原後、毛利家が移った二国は?

A. 周防すおう・長門ながと、合わせて防長二国です。

毛利輝元から、次にたどる

参考にした資料