人物ページ / 安芸から中国地方へ勢力を広げた毛利家の当主

毛利元就もうり もとなり

毛利元就は、安芸の国人領主だった毛利家を、中国地方を代表する大名へ育てた人物です。大内氏・尼子氏という大勢力の間で立場を選び、1555年の厳島の戦いで陶晴賢すえはるかたを破ります。息子の吉川元春きっかわもとはる・小早川隆景とともに勢力を広げ、孫の毛利輝元へ大きな領国を引き継ぎました。

1497 - 1571安芸の国人から中国の大名へ厳島の戦い元春・隆景・輝元の祖父
毛利元就の肖像画
毛利元就像 / Wikimedia Commons / Public Domain

元就を最初にどう覚える?

安芸の国人

元就の出発点は、現在の広島県北部を本拠とする小さな領主です。最初から中国地方を支配していたわけではありません。

大内・尼子の間で動く

西の大内氏、東の尼子氏という大勢力の間で、毛利家が生き残り、伸びるための選択を重ねました。

厳島で陶晴賢を破る

1555年、厳島で大内方の実力者・陶晴賢を破ります。毛利家が中国地方へ進出する大きな転換点です。

次世代へつなぐ

元春・隆景という息子を各地の有力家へ入れ、孫の輝元が大領国を継ぐ基盤を整えました。

安芸から中国地方へ広がる流れ

1523
毛利家の家督を継ぎ、安芸の国人領主として出発します。
1540-41
尼子晴久の吉田郡山城攻めを退け、毛利家の存在を周囲に示します。
1555
厳島の戦いで陶晴賢を破り、大内氏の旧領へ影響を広げます。
1566
尼子氏の本拠・月山富田城がっさんとだじょうが落ち、中国地方の勢力図が大きく変わります。
1571
元就が死去。毛利家の当主は孫の毛利輝元もうり てるもとへ受け継がれます。

厳島は「少数が大軍を破った」で終わらせない

厳島の戦いは、元就が陶晴賢を破った戦いとして知られます。ただし見どころは、戦場での勝敗だけではありません。陶晴賢が主君・大内義隆を倒して大内家の実権を握ったこと、元就が周辺の国人や水軍との関係を整えたことが、その前提にありました。

元就は厳島で勝った後、大内氏の領域へ影響を広げます。つまり厳島は、毛利家の「一発逆転」ではなく、安芸の一勢力が西中国へ進むために積み重ねた政治と軍事が形になった転換点です。

毛利元就の相関図

安芸の国衆くにしゅうから身を起こし、大内氏に従いながら力を蓄え、陶晴賢を厳島で破り、尼子氏を滅ぼして中国地方の大半を手にした。三人の息子を毛利・吉川・小早川の三家に配した。

毛利元就の相関図嫡男・隆元、次男・元春(吉川家)、三男・隆景(小早川家)、孫・輝元。主家の大内義隆、敵対した陶晴賢・尼子晴久・大友宗麟。 敵対した人物 家族 主家・味方 もうり もとなり毛利元就安芸の国衆→中国地方の大名 もうり たかもと毛利隆元嫡男・1563年に急死 きっかわ もとはる吉川元春次男・吉川家を継ぐ こばやかわ たかかげ小早川隆景三男・小早川家を継ぐ あまご はるひさ尼子晴久出雲の大名・月山富田城 すえ はるかた陶晴賢大内氏の実権を握る おおとも そうりん大友宗麟北九州で争う もうり てるもと毛利輝元孫・隆元の子・後継 おおうち よしたか大内義隆主家・1551年に陶に討たれる むらかみすいぐん村上水軍厳島で味方につく 家督を譲る(1546) 吉川家へ養子に 小早川家へ養子に 孫を後見 主家として従う 厳島で破る(1555) 月山富田城を落とす(1566) 門司・北九州で争う 隆景が味方につける 兄弟
この図で見てほしいのは、三人の息子が上と下に分かれていることです。隆元は毛利宗家、元春と隆景は吉川・小早川という別の家を継いで、毛利を外から支えた(毛利両川)。「三本の矢」の話は史実ではないが、三子教訓状で結束を求めたことは確か。

図の人物:毛利隆元もうり たかもと・吉川元春きっかわ もとはる・小早川隆景こばやかわ たかかげ・毛利輝元もうり てるもと・陶晴賢すえ はるかた・尼子晴久あまご はるひさ・大友宗麟おおとも そうりん・大内義隆おおうち よしたか

三人の息子を、役割で見る

吉川元春きっかわ もとはる次男。吉川家を継ぎ、山陰方面を含む毛利家の軍事を支えた武将です。
小早川隆景こばやかわ たかかげ三男。小早川家を継ぎ、瀬戸内海と外交・政務を担う存在として活躍します。
毛利輝元もうり てるもと孫で後継者。元就の死後、広い毛利領国を引き継ぎ、豊臣政権の五大老へ進みます。

「三本の矢」の逸話は有名ですが、三人が一本の矢を折る実演をしたという同時代史料は確認できません。大事なのは逸話の真偽より、元就が家の分裂を防ぎ、各家の力を毛利家の結びつきとして使おうとした点です。

元就がつくったのは、城だけではない

国人をまとめる

中国地方には多くの国人領主がいました。元就は婚姻・養子・同盟などを用い、ただ従わせるだけではない関係を組みます。

海と陸を結ぶ

瀬戸内海の水軍や港の動きは、兵や物資を運ぶうえで重要でした。厳島を含む瀬戸内の支配は、毛利の勢力拡大と結びつきます。

家を分けて力を束ねる

元春・隆景を吉川・小早川へ入れたことで、別の有力家の基盤を毛利家の力として結びつけました。

輝元へ引き継ぐ

元就の死後に輝元が継いだ毛利家は、安芸だけの領主ではありません。中国地方の広い領域を持つ大名でした。

信長・秀吉の時代へ、どうつながる?

元就の死後、毛利家は織田信長おだ のぶながの中国方面軍と向き合います。秀吉の中国攻め、高松城水攻め、本能寺の変は、元就が残した毛利家の領国があったからこそ重要になる出来事です。

その後、輝元は豊臣政権の五大老となり、1600年の関ヶ原では西軍の総帥と位置づけられます。元就のページから輝元へ進むと、戦国の中国地方が豊臣・徳川の全国政治へ組み込まれる流れまでたどれます。

ここだけ覚える

  • 毛利元就は、安芸の国人領主から中国地方の大名へ伸びた人物。
  • 大内氏・尼子氏という大勢力の間で、同盟と戦いを使い分けた。
  • 1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破り、西中国へ進出する足場を得た。
  • 元春・隆景・輝元へつながる家の仕組みが、毛利家を大きくした。

元就一代の成功を、次の世代へ渡す仕組み

元就の嫡男・毛利隆元は、父より先に1563年に没しました。そのため家督は隆元の子・毛利輝元もうり てるもとへ移り、元就が後見し、吉川元春と小早川隆景が軍事・外交を支える体制になります。元就の死後も毛利家が大勢力であり続けたのは、単に「三本の矢」の教えがあったからではなく、別家を継いだ息子たちと家臣団に役割が分かれていたためです。

隆元

元就の嫡男で、毛利本家の当主として大内氏との関係や領国運営を担いました。早世したため、輝元への継承が課題になります。

吉川元春きっかわ もとはる

次男で吉川家を継ぎ、山陰方面の軍事を担当しました。毛利本家とは別の家の当主である点が重要です。

小早川隆景こばやかわ たかかげ

三男で小早川家を継ぎ、瀬戸内の海上交通や外交を担いました。元春と合わせて「両川りょうせん」と呼ばれます。

毛利輝元もうり てるもと

隆元の子。祖父と叔父たちに支えられて大領国を継ぎ、のちに信長・秀吉と向き合います。

「三本の矢」は史実そのものか

三人の息子に一本ずつ矢を折らせ、三本を束ねると折れないと教えた逸話は、毛利家の結束を象徴する有名な物語です。一方、この場面をそのまま同時代史料で確認できるわけではありません。元就が息子たちに協力を求めた書状は残りますが、逸話の演出と実際の家中統制は分けて見る必要があります。

元就が変えたのは、安芸の一国人だった毛利氏を、大内氏・尼子氏の間で選択しながら中国地方の広域権力へ成長させたことです。婚姻、養子、国衆との契約、山陰と瀬戸内の分担を組み合わせた点に、合戦の奇策だけでは見えない政治力があります。

注意点

元就を読むときに気をつけたいこと

  • 「三本の矢」の話は、史実としては確かめられない。三人の子に矢を折らせて結束を説いた話は、江戸時代以降に広まったもので、同時代の史料にはない。元就が三子に宛てた「三子教訓状」(1557年)は実在し、兄弟の結束を強く求める内容で、この教訓状が物語の元になったとみられる。
  • 「謀略の人」の像は、後世の軍記が強調した面がある。厳島の戦いで偽の情報を流した、尼子氏の重臣を内通の噂で除いた、といった話は『陰徳太平記』などの軍記による。同時代の書状からは、慎重で人の動きをよく見る人物像がうかがえるが、逸話の細部は確かめられない。
  • 「天下を競望せず」の遺訓は、内容と存在に議論がある。毛利氏が天下を狙わなかった理由として語られるが、元就自身の言葉として記録したものは確認されていない。輝元の関ヶ原での行動と結びつけて語るのは後付けの面がある。
  • 厳島の兵力差「4千対2万」は確定した数字ではない。後世の軍記による数字で、元就軍が少数だったことは確かとみられるが、具体的な数は伝承として読む。

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参考にした資料