人物ページ / 1514〜1560年 / 尼子氏当主・八か国守護・新宮党粛清

尼子晴久あまご はるひさ

尼子晴久は、尼子経久の孫で、尼子氏の当主です。初めは詮久あきひさと名乗り、祖父・経久の跡を継ぎました。1540年に安芸の毛利氏の本拠・吉田郡山城こおりやまじょうを攻めましたが、翌年正月に引き揚げ、国衆の離反を招きます。1552年には幕府から八か国の守護に任じられ、1554年には一族の新宮党を処断しました。1560年に急死し、跡を継いだ義久の代に尼子氏は毛利氏に降伏します。

経久の孫 1540年 郡山城攻めの失敗 1552年 八か国の守護 1554年 新宮党粛清

尼子晴久とは?

  • 祖父・経久の跡を継いだ。1514年、政久の子、経久の孫として生まれ、祖父の跡を継いで当主となった。経久が亡くなる前年の1540年には、詮久の名で郡山城攻めを率いている。
  • 郡山城攻めに失敗した。1540年、毛利氏の本拠・吉田郡山城を攻めたが、翌1541年正月に引き揚げた。備中・備後・安芸・石見の国衆が大内方へ離れ、1542年には大内義隆おおうち よしたかが出雲へ攻め込んだ。
  • 八か国の守護になった。1552年、将軍足利義藤(のちの義輝)から因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の守護に任じられ、出雲・隠岐とあわせて八か国の守護となった。前年の1551年には、大内義隆が家臣の陶隆房に攻められて自害している。
  • 新宮党を処断した。1554年、経久の次男・国久や誠久らを処断した。出雲西部に勢力を広げた国久は、出雲一国の支配を目指す晴久にとって大きな障害だった。
  • 毛利氏との争いの中で急死した。1555年以後、備中・石見で毛利氏と争い、1560年11月に将軍の仲介で停戦した翌月に亡くなった。47歳。
人物

何をした人物か

晴久は1514年、政久の子、尼子経久の孫として生まれました。祖父・経久の跡を継ぎ、初めは詮久と名乗っています。1540年、詮久は安芸の毛利氏の本拠・吉田郡山城を攻めましたが、翌1541年正月に引き揚げました。この撤退で備中・備後・安芸・石見の国衆が大内方へ離れ、同じ1541年に祖父の経久も亡くなります。

1542年、大内義隆は出雲へ攻め込み、月山富田城を見下ろす京羅木山に陣を置きました。しかし尼子方が持ちこたえ、義隆は1543年に引き揚げます。離れていた国衆が戻り、尼子氏は勢力を回復しました。1551年に大内義隆が家臣の陶隆房すえたかふさに攻められて自害すると、翌1552年、晴久は将軍足利義藤(のちの義輝)から因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の守護に任じられ、出雲・隠岐とあわせて八か国の守護となりました。1554年には一族の新宮党を処断します。新宮党は経久の次男・国久の系統で、国久は出雲西部に勢力を広げ、出雲一国の支配を目指す晴久にとって大きな障害になっていました。

1555年に毛利元就が陶晴賢すえ はるかた(隆房)を討って大内氏の旧領を手に入れると、備中・石見で尼子氏と毛利氏の勢力がぶつかるようになります。1556年には晴久が石見銀山を奪いました。1560年11月、将軍足利義輝の仲介で毛利氏との停戦が成り立ち、その翌月に晴久は亡くなりました。47歳でした。跡を継いだ義久は、1566年に毛利氏に降伏します。晴久の時代は、当主に権力を集め、複数の奉行人による組織的な支配へ移そうとした時期でもありました。

年表

年表で追う

  1. 011514年:誕生

    政久の子、経久の孫として生まれる。

  2. 021540〜41年:郡山城攻め

    毛利氏の本拠・吉田郡山城を攻めるが、1541年正月に引き揚げる。

  3. 031541年:晴久と改名

    将軍足利義晴の一字を受け、詮久から晴久に改める。

  4. 041552年:八か国の守護に

    将軍足利義藤(義輝)から守護に任じられる。

  5. 051554年:新宮党の処断

    一族の国久・誠久らを討つ。

  6. 061560年:死去

    毛利氏との停戦の翌月、12月に亡くなる。47歳。

注意点

晴久を読むときに気をつけたいこと

  • 新宮党の処断は、この時代に珍しくない。一族との対立は、同じころの伊達晴宗・武田晴信・今川義元いまがわ よしもと・島津貴久しまづ たかひさにも見られる。晴久の場合は、備後を失い、石見にも毛利氏が進出してくる危機への対処でもあった。ただし当主の代わりを務められる有力者を失い、軍の動きが鈍る結果になった。
  • 「八か国の守護」は支配の実態とは別。伯耆・美作のほかは尼子方の影響下になく、支配を追認した任命ではない。八か国の中身も資料によって食い違い、因幡を挙げずに七か国を並べる年表もある。
  • 詮久から晴久への改名。1541年、将軍足利義晴から一字を受けて晴久と改めた。1540年の郡山城攻めのときは、まだ詮久と名乗っていた。
  • 没年は1560年とするものが多い。没年には諸説があり、永禄3年(1560年)とするものが多い。生没年を1514〜61年と書く資料もある。

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参考にした資料

  • 島根県「島根歴史講座 尼子家の『御一家再興』戦争と山中幸盛」講座資料(中野賢治、2021年)(晴久の生没年と47歳での死去、1540〜41年の吉田郡山城攻めと国衆の離反、1541年の改名、1542〜43年の大内義隆の出雲侵攻と撤退、1551年の大内義隆の自害、1552年に因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の守護に任じられ出雲・隠岐とあわせ8か国となったことと伯耆・美作以外は支配の追認ではないこと、1554年の新宮党事件と国久の勢力・同時代の類例・その結果、当主への権力集中と奉行人制度の整備、1555年以後の毛利氏との衝突、1560年11月の停戦と12月の死去を記載)
  • 山口県「絹本着色尼子晴久像」(晴久が1514年に政久の子・経久の孫として生まれ、経久の跡を継いだこと、1552年に山陰・山陽8か国の守護となったこと、没年は諸説あるが1560年とするものが多いことを記載)
  • 安来市教育委員会「安来ふるさと読本(中学校用)」(1552年の八箇国守護の年表に因幡を挙げず出雲・隠岐・伯耆・備前・備中・備後・美作を並べること、1554年の国久・誠久の殺害、1560年の晴久の急死と義久の家督継承を記載)
  • 安来市教育委員会「月山富田城跡」(1540年の詮久(晴久)による吉田郡山城攻め、1552年の八ヶ国守護への任命、1554年の新宮党粛清、1556年の石見銀山の奪取を略年表で記載)
  • 島根県「富田城跡」(富田城が尼子氏の居城だったことを記載)