要点
- 祖父から家督を継いだ。父・政久が早世したため、1537年に祖父・経久から直接家督を譲られた。経久はその4年後に死去した。
- 郡山城攻めに失敗した。1540年、大軍で毛利元就の郡山城を囲んだが、大内氏の援軍に敗れて撤退した。尼子氏の勢いが止まった転機。
- 八か国の守護になった。1552年、幕府から八か国の守護職を得た。尼子氏の家格としては最高の地位で、大内氏が滅びかけていた時期にあたる。
- 新宮党を粛清した。1554年、経久の次男・国久の系統で軍の中核だった新宮党を討った。理由は諸説あり、尼子氏の軍事力を損なったとされる。
- 毛利氏との争いの中で急死した。石見銀山をめぐって毛利元就と争い続け、1561年に月山富田城で急死。47歳。
何をした人物か
晴久は尼子経久の嫡男・政久の子として生まれました。政久が早くに戦死したため、晴久は祖父の経久に育てられ、1537年に直接家督を譲られます。経久が築いた尼子氏の勢力を引き継いだ晴久は、1540年、安芸へ進出して毛利元就の郡山城を大軍で囲みました。しかし大内氏の援軍を得た毛利方に敗れ、撤退します。この失敗で尼子氏の拡大は止まり、翌年には祖父の経久も死去しました。
大内氏が1551年の陶晴賢の謀反で揺らぐと、晴久は幕府との関係を深め、1552年に出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後の八か国の守護職を得ました。尼子氏の家格はこのとき頂点に達します。しかし1554年、晴久は一族の新宮党を粛清しました。新宮党は経久の次男・国久の系統で、尼子軍の中核を担う一方、本家をしのぐ力を持っていました。粛清の理由は新宮党の専横への反発、当主権力の強化、毛利元就の謀略などが挙げられますが、確定していません。
大内氏を滅ぼした毛利元就は、次に尼子氏と争います。石見銀山をめぐる攻防が続くなか、1561年、晴久は月山富田城で急死しました。47歳でした。跡を継いだ義久は毛利氏の包囲に耐えきれず、1566年に降伏します。晴久の時代は、尼子氏の家格が頂点に達すると同時に、滅亡の条件がそろった時期でもありました。
年表で追う
- 011514年:誕生
尼子政久の子として生まれる。父は早世。
- 021537年:家督相続
祖父・経久から直接家督を譲られる。
- 031540〜41年:郡山城攻め
毛利元就を攻めるが大内氏の援軍に敗れる。
- 041552年:八か国の守護に
幕府から八か国の守護職を得る。
- 051554年:新宮党粛清
一族の国久・誠久らを討つ。
- 061561年:死去
月山富田城で急死。47歳。
晴久を読むときに気をつけたいこと
- 新宮党粛清の理由は確定していない。毛利元就の謀略に乗せられたとする話が知られるが、後世の軍記物によるもので、当主権力の強化など別の見方も有力。
- 「八か国の守護」は支配の実態とは別。幕府から守護職を認められた国のすべてを実際に支配していたわけではなく、家格を示す意味が強い。
- 詮久から晴久への改名。1541年ごろ、将軍足利義晴から一字を受けて晴久と改めた。それ以前の史料では詮久と現れる。