場所ページ / 島根県大田市・日本海に開いた銀の山

石見銀山いわみぎんざん

石見銀山とは?

石見銀山は、大内・尼子・毛利が奪い合い、その銀が明との貿易を動かした鉱山です。現在の島根県大田市にあります。

発見——1520年代に博多の商人がこの山の開発に関わったと伝わり、1533年に朝鮮半島から伝わった精錬技術(灰吹法)で産出が本格化します。当時の支配者は守護大名の大内氏でした。
争奪——銀が財源になると、大内・尼子・毛利の各氏が銀山の争奪をくりかえします。焦点になったのが山吹城(銀山にあった城)でした。
積み出し——掘り出した銀は日本海の港から船に積まれます。使う港は、支配する家と時期によって入れ替わりました。
銀の行き先——銀は明との交易に使われました。まもなくポルトガルの商人が、その流れの主導権を握ります。
鉱山町——銀山川沿いの谷間には南北約2.8キロの鉱山町が育ち、17世紀に支配の中枢が北へ移ります。
幕府直轄——関ヶ原の戦いののち、銀山は徳川幕府の直轄地になりました。

発見——博多の商人の名が、二通りの年で残る

石見銀山の坑道は、山あいの仙ノ山せんのやまを中心に開かれた。この山は全国有数の産銀として古くから知られ、開発に関わった人物として名が残るのが、博多の商人・神屋寿禎かみやじゅていである。

資料で分かれる 1526年か、1527年か

神屋寿禎がこの山に関わった年は、16世紀前半の二つの年で伝えられている。1526年に本格的な開発を始めたとする資料と、1527年に発見したとする資料があり、年も、発見か本格開発かという言い方も分かれる。彼を博多の商人とする点は、どちらの資料でも共通する。

1533年 灰吹法が海を渡ってくる

1533年、灰吹法はいふきほう(銀を取り出す精錬技術)が朝鮮半島から石見銀山へ伝わった。高い純度の銀を大量に生産できるようになり、ここでの銀の産出は本格化する。当時、この銀山は守護大名・大内氏の支配下にあった。

争奪——三つの家が、山吹城を焦点に奪い合う

銀が大量に出るようになると、この山は西国の大名が奪い合う的になった。戦国時代を通じて大内・尼子・毛利の各氏が銀山の争奪をくりかえし、その焦点になったのが山吹城である。城をめぐる年ごとの攻防は、史料では確定できない。

争った理由 海外交易の財源だった

戦国時代の大名がこの山を争ったのは、全国有数の産銀として知られ、確保すれば海外との交易にそのまま使える財源になったからである。

約40年 毛利氏が銀山を確保

争奪の末に銀山を確保した毛利氏の支配は、約40年続いたとされる。その後、豊臣氏を経て江戸幕府の直轄に移ったとする資料もある。

積み出し——支配者が代わると、銀の出口も代わる

石見銀山で掘り出した銀は、日本海の港まで運ばれて船に積まれた。出口となる港は時期によって入れ替わり、開発の初期は北西の鞆ヶ浦ともがうら、毛利氏の時代は西の沖泊おきどまりが使われた。

16世紀前半 鞆ヶ浦から博多へ

開発の初期にあたる16世紀前半、銀鉱石と銀は鞆ヶ浦から国際貿易港の博多へ積み出された。鞆ヶ浦は銀山柵内ぎんざんさくのうち(銀山の囲いの内側)から北西へ約6キロの入り江で、両者は全長約7.5キロの街道で結ばれていた。この道は、銀山から日本海へ出る最短の搬出路だった。

16世紀後半 沖泊は水軍の基地も兼ねる

毛利氏が銀山を支配した16世紀後半、精錬した銀は西の沖泊から積み出された。沖泊は銀山への物資の補給地であり、毛利水軍の基地としても働いた港である。隣接する温泉津ゆのつは、銀山の消費と生産を支える港町として、支配の政治的な中心地になった。

銀の行き先——明の税の制度が、石見の銀を呼ぶ

銀山を支配した戦国大名は、掘り出した銀を海外との交易に使った。相手は当時の中国、明である。

明の事情 銀で税を納める制度ができた

16世紀の明は、北方の異民族の侵入に備える防衛費を賄うため、銀で税金を納める制度をつくった。国じゅうが大量の銀を必要とし、その需要が日本の銀に値をつけた。日本からの銀は当初、明へ直接流れ込み、まもなくマカオを拠点とするポルトガル商人がこの貿易の主導権を握った。ポルトガル商人は東南アジアで買った生糸を日本で銀に換え、明へ運んだ。この交易は1600年代初頭まで盛んに行われた。

少なくとも10% 世界の銀取引に占めた割合

1500年代後半に世界中で取引された銀の総量のうち、少なくとも10%は石見銀山のものだったと推計されている。

鉱山町——銀山川沿いに、南北2.8キロの町がのびる

銀山川沿いの谷間には南北約2.8キロにわたって木造の鉱山町が展開し、南の銀山地区と北の大森地区に分かれる。この区分は、江戸時代の行政区分だった銀山町と大森町を踏襲したものである。

16世紀 まず仙ノ山、次に銀山川沿い

開発の始まった16世紀、居住地はまず仙ノ山を中心に作られた。開発が進むと町の中心は銀山川沿いへ移り、要害山ようがいさんの南麓が支配の中心地であり、経済的にもっとも栄えた場所になる。この付近には、多くの店舗があったことを示す地名が残る。

17世紀 中枢が北の大森へ移る

17世紀に入ると新たに大森町の建設が始まり、支配の中枢は現在の代官所跡の付近へ移った。銀山川沿いにのびる大森・銀山の町並みには武家屋敷と町家が混在し、1987年12月5日に重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。木造建築の多くは1800年の大火のあとに建て直されたものである。

幕府直轄——争奪の的だった山が、政権の直営になる

関ヶ原の戦いののち、江戸時代に入ると石見銀山は徳川幕府の直轄地となった。銀山は、幕府から派遣された奉行と代官のもとで運営された。

史跡指定 釜屋坑・佐毘売神社・山吹城跡も含む

史跡・石見銀山遺跡の指定は1969年4月14日、管理団体は大田市である。指定範囲には仙ノ山の釜屋かまや坑などの採鉱遺跡、山の神をまつる佐毘売さひめ神社、戦国時代の山吹城跡もあわせて含まれている。

その後 1923年の休山、2007年の登録

幕府の直轄が終わったあと、石見銀山は明治時代に大阪の藤田組による近代的な開発で活況を取り戻し、1923年に休山して約400年の鉱山としての歴史を終えた。2007年7月、「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録された。国内では14件目、鉱山遺跡としてはアジアで初めてである。

石見銀山の疑問に答える

「間歩」って、何のこと?

銀鉱石を採掘するために山へ掘った坑道のことを、間歩まぶという。石見銀山にはこの間歩が数多く残り、そのうち大田市大森町にある龍源寺間歩りゅうげんじまぶは、坑道の中に入って見学できる。

石見銀山の遺跡は、どこまでを指す?

史跡としての指定の範囲は、大田市の大森町・温泉津町・仁摩町にまたがる。鉱山の跡に加えて、街道、港、城やそのほかの要塞、支配の跡、住まいの場所、宗教の遺跡までが、鉱山の活動をひとつづきに示すまとまりとして残っている。

銀山と港をつないだ道は、今も残っている?

鞆ヶ浦へ向かう街道は道幅0.6から2.4メートルで、尾根筋の通行を楽にするために土橋を架けたり切土をしたりした道普請の跡が、良好に残る。銀山から日本海へ続く街道は、今も歩くことができる。沿道には、通行の安全を祈って建てられた石塔や小さな祠も残っている。

世界遺産に登録された理由は?

世界遺産としての価値は、次の三点にまとめられる。

  • 16世紀から17世紀初頭の石見銀山が世界経済に与えた影響
  • 銀の生産についての考古学的な証拠が良好な状態で保存されていること
  • 銀山と鉱山集落から輸送路、港にいたるまで、鉱山活動の総体をとどめていること

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参考にした資料