大内義隆とは?
- 西国一の大名だった。1528年に家督を継ぎ、北九州で少弐氏・大友氏と争って勢力を広げ、七か国の守護職を持った。
- 毛利元就を助けた。1540〜41年、尼子氏に吉田郡山城を囲まれた毛利元就に援軍を送り、尼子軍を退けた。元就が大内氏に従う関係はここで固まった。
- 出雲遠征で大敗した。1542〜43年、尼子氏の月山富田城を攻めたが国衆の寝返りで敗れ、養子の晴持を撤退中に失った。以後、軍事に消極的になったとされる。
- 文化と朝廷を重んじた。京都から公家を招き、官位を重ね、山口を「西の京」として栄えさせた。ザビエルにも布教を許した。
- 家臣に討たれた。文治への傾きに不満を持つ陶晴賢が1551年に挙兵。義隆は山口を逃れ、大寧寺で自害した。45歳。
何をした人物か
義隆は1528年、父・義興の死により22歳で家督を継ぎました。義興が将軍を奉じて上洛し幕政を動かした実績を背景に、義隆は北九州で少弐氏を追い、大友氏と争って筑前・豊前を押さえます。安芸では国人の毛利元就を従え、1540年に尼子氏が吉田郡山城を囲むと援軍を送って撃退しました。このころの大内氏は、中国地方西部から北九州にかけて七か国の守護職を持つ、西国一の大名でした。
転機は1542年からの出雲遠征です。義隆は尼子氏の本拠・月山富田城を大軍で囲みましたが、従軍していた国衆が次々と尼子方に寝返り、大敗しました。撤退中に養子の晴持が海で溺死したこともあり、義隆はこの敗戦を境に軍事から遠ざかったとされます。以後は京都から公家を招いて歌や学問に親しみ、朝廷から高い官位を受けることに力を注ぎました。
この文治への傾きは、武断を求める家臣たちとの溝を生みました。1551年、周防守護代で最有力の重臣だった陶晴賢が兵を挙げて山口を襲います。義隆は長門へ逃れましたが追い詰められ、大寧寺で自害しました。大内氏は晴賢が立てた大内義長のもとで続きますが、1557年に毛利元就に滅ぼされます。
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義隆を読むときに気をつけたいこと
- 「文弱な当主」という評価は後世の見方を含む。出雲遠征後の変化は史料からも読み取れるが、義隆の文化政策は大内氏の伝統でもあり、それ自体が失政とはいえない。晴賢側の正当化が評価に影響している面もある。
- 謀反の原因は一つではない。文治派と武断派の対立に加え、晴賢が大内氏の一族出身で「家」の将来を案じていたとする近年の見方がある。義隆個人への反発だけで説明するのは単純化になる。
- ザビエルとの関係は短い。義隆が布教を許したのは死の年で、大内氏のキリスト教保護は長く続いたわけではない。「キリシタン大名」とは性格が異なる。