城・場所ページ / 毛利氏の本拠・山全体を城にした安芸の山城

吉田郡山城よしだこおりやまじょう

吉田郡山城とは?

吉田郡山城は、安芸の国衆くにしゅうだった毛利氏が本拠とした山城です。今の広島県安芸高田市吉田町にある郡山という山にあり、城跡は国の史跡「毛利氏城跡」のうちの「郡山城跡」です。奈良県大和郡山市にある豊臣秀長とよとみ ひでながの郡山城とは、別の城です。1540〜41年、毛利元就はこの城で、攻め寄せた尼子氏の大軍を大内氏の援軍とともに退けました。そのころの城の中心は山の南東の尾根にありましたが、城は16世紀中ごろまでに郡山全体へ広がったとみられます。孫の毛利輝元もうり てるもとが1591年に広島城へ本拠を移したあとも、1600年の関ヶ原の戦いのころまで使われていた可能性が高いとされます。

毛利氏は14世紀に吉田へ入ったとされます。城が築かれた年ははっきりしませんが、15世紀中ごろには郡山の南東の尾根に城があったと考えられています。
1523年、毛利家を継いだ元就が、育った多治比猿掛城たじひさるがけじょうから移ってきます。
1540年9月、尼子氏の大軍が吉田に攻め寄せます。12月に大内氏の援軍が着き、1541年1月、尼子軍は退きました。
家督を譲った元就は山頂に住み、城は郡山全体へ広がっていったとみられます。元就は1571年、この城で亡くなりました。
1591年、輝元は広島城へ移りました。城はその後もしばらく使われ、関ヶ原の戦いのあとに役目を終えたとみられます。
郡山の尾根には約270の郭くるわが残ります。1940年に国の史跡になり、今の史跡の名は「毛利氏城跡」です。

本城——郡山の南東の尾根の城

毛利氏は、承久の乱(1221年)のあと、安芸の吉田荘(今の安芸高田市吉田町などにまたがる荘園)を手に入れた。一族が吉田へ移ったのは14世紀の南北朝時代とされ、1336年に毛利時親が吉田に入ったといわれる。

毛利氏の城が、いつ郡山に築かれたのかは、はっきりしていない。毛利氏の本拠としての城が記録に現れるのは、1453年の記事からである。少なくとも15世紀中ごろには、郡山の南東の尾根に城があったと考えられている。この城は「本城」と呼ばれた。麓からの高さ約90メートルの尾根にあり、今の本丸跡がある山頂ではなかった。

元就の入城——多治比猿掛城から本家の城へ

毛利元就は1497年、毛利家の当主・毛利弘元の子として生まれた。1500年、4歳のとき、家督を元就の兄の興元に譲った父とともに、郡山から北西へ約4キロの多治比猿掛城へ移り、ここで育った。

兄の興元は1516年に亡くなり、その子の幸松丸こうまつまるが家を継いだ。1523年7月、その幸松丸が9歳で亡くなると、家臣たちは元就に家督を継ぐよう求めた。福原広俊ら15人の家臣は、連名で元就に郡山の城へ入るよう願い、入城は8月10日と決まった。元就は27歳だった。このとき元就が入ったのは、南東の尾根にあった本城である。

郡山合戦——尼子の大軍を、大内の援軍とともに退ける

元就は1525年、出雲の尼子氏から離れ、周防・長門の大内氏と結んだ。1539年ごろ、尼子氏は安芸や備後にたびたび兵を出して多くの国衆を影響下に置き、大内方の毛利氏との対立を深めていた。1540年、尼子氏の当主・尼子詮久あまご あきひさ(のちの晴久)は、大軍を率いて安芸の吉田へ攻め込んだ。元就は城にこもって、これを迎え撃った。

  1. 1540年9月4日、3万と伝わる尼子軍が、吉田の北西の多治比に陣を取った。尼子軍は城の周りの村に火を放ち、12日には城下で毛利軍と戦った。
  2. 9月23日、尼子軍は、郡山から少し離れた西側の山、青山と三塚山に陣を移した。9月から12月にかけて、両軍は吉田のあちこちで何度も戦い、10月11日には青山のふもとでも戦いがあった。
  3. 大内氏の援軍は、重臣の陶隆房すえ たかふさ(のちの晴賢)が率いた。援軍は10月に海から安芸に上陸し、12月3日、郡山の南の山に陣を取った。軍勢は1万と伝わる。
  4. 1541年1月13日、毛利軍は宮崎長尾(三塚山の北の丘)にあった尼子方の陣を攻め崩し、陶隆房の軍は三塚山の尼子軍を攻めた。陣を破られた尼子軍は、その夜のうちに退いた。

退く尼子軍は毛利軍に追われ、石見で江の川を渡るときにも多くの死傷者を出した。この敗北のあと、備中・備後・安芸・石見の国衆は、尼子氏から離れて大内方についた。5月には、安芸の守護大名で、尼子氏に支えられていた安芸武田氏が、大内・毛利の軍に攻められて滅んだ。大内義隆おおうち よしたかは翌1542年、尼子氏の本拠の出雲に攻め込み、翌年にかけて月山富田城を攻めた。

尼子軍は、城を取り囲んだのか

この合戦は、尼子の大軍が城を攻め、毛利氏が城にこもって戦った籠城戦として語られてきた。近年、航空レーザ測量で作った細かな地形図の観察と現地の調査によって、吉田のまわりの山に残る陣の跡が詳しく分かってきた。尼子方とみられる陣の跡は、郡山から少し離れた南西から北西の山に、大内方とみられる陣の跡は、郡山の東から南の尾根に見つかった。郡山の北側には、陣の跡がまったく見つからなかった。

安芸高田市歴史民俗博物館の秋本哲治は2025年、島根県古代文化センターの催しでこの成果を報告し、尼子軍は大軍だったが、城を取り囲んではいなかった可能性が高いとした。9月から11月の戦いは城下の周りでの局地的なもので、城そのものへの本格的な攻撃はみられない、ともいう。尼子軍のねらいは城を攻めることではなく、安芸の尼子方の勢力を支えることにあった、とみている。調査で分かったのは陣の跡の分布である。「城を取り囲んでいなかった」は、この分布と、記録にみえる戦いの経過(9月から11月に城への本格的な攻撃がないこと)の両方から導いた解釈である。

山全体へ——元就と隆元の時代に広がった城

郡山合戦のころ、城の中心は、まだ南東の本城だった。元就は1546年に長男の毛利隆元もうり たかもとに家督を譲ると、郡山の山頂に移り住んだ。山頂は「かさ」と呼ばれた。隆元は、本城の住まいでは山頂の元就から遠いとして、山の中腹へ移りたいと願い、のちに「尾崎」へ移った。1551年には麓の堀が西へ延ばされ、このころまでに城は、本城を含む郡山全体に広がったらしい。

城の中には、座敷や風呂などの建物があったことが、同時代の記録に見える。戦国大名が山の上に住んだ例は発掘でも知られているが、同時代の記録と遺構の両方で確かめられるのは全国で郡山城跡だけだと、安芸高田市の保存活用計画は評価している。元就は、中国地方に勢力を広げたあとも山頂で政務をとり、1571年6月14日、この城で75歳で亡くなった。

広島城へ——輝元の移転と、城の終わり

元就の孫の毛利輝元も、城に手を入れ続けた。1584年には堀の普請を行い、城の中の普請も予定していた。山頂の中心部が石垣で造り直されたのも、16世紀の終わりごろと考えられている。一方で輝元は、1589年に太田川の河口の三角州で広島城を築き始め、1591年に移った。広い領国を治めるため、海と陸の交通の要所に本拠を移す必要があったとされる。

古い説明 1591年に廃城

1940年に国の史跡に指定したときの説明は、輝元が広島へ移った1591年に、吉田郡山城は廃城になったとしている。

保存活用計画の見方 1600年ごろまで使われた可能性

輝元が広島へ移ったあと、1590年代の文禄年間に、小早川隆景こばやかわ たかかげらが吉田で集まった記録がある。安芸高田市の保存活用計画は、城が1600年の関ヶ原の戦いのあと、毛利氏が周防・長門の二国へ移されるまで使われていた可能性が高いとしている。中心部の石垣は、隅や上の部分が壊されていて、城が使われなくなるときに破城はじょう(城を使えなくするために壊すこと)が行われたとみられている。

今の城跡——約270の郭と、元就の墓所

江戸時代、郡山は広島藩が管理する山になった。島原の乱(1637〜38年)をきっかけに、城の外側の堀が埋められたと、江戸時代の記録にある。一方、毛利氏の長州藩は、江戸時代を通じて50年ごとに元就の墓へ参った。1940年、山頂を中心とした範囲が国の史跡に指定された。1988年には範囲が郡山の約半分に広がり、元就が育った多治比猿掛城跡とあわせて、名前が「毛利氏城跡」に改められた。

山の上 山全体に広がる郭

郡山の山頂から四方へ延びる尾根には、約270の郭(山を削って平らにした区画)が残る。山頂の本丸・二の丸・三の丸といった名は、18世紀以降の地誌に記された地元の呼び名である。中心部には石垣の跡がある。城跡からは、主に中心部で、500点を超える輸入された陶磁器が見つかっている。城跡に残る跡の大半は16世紀中ごろ以降のもので、郡山合戦のころ城の中心だった本城は、南東の尾根に残っている。

麓 元就の墓所と「百万一心」の碑

麓には、元就の墓所と毛利一族の墓所がある洞春寺跡や、隆元の墓所がある常栄寺跡が残る。元就の墓所には、1931年に建てられた「百万一心」の碑がある。元就が城を広げるとき、人柱の代わりに「百万一心」と彫った石を埋めさせたという伝説にちなむ碑で、伝説の石そのものではない。

吉田郡山城の疑問に答える

「郡山」という山の名は、どこから来ている?

古代の郡の役所があった場所を示す地名とされる。この地には、古代の高宮郡の役所(郡衙)が置かれていたと考えられている。

毛利元就は、この城で生まれたの?

はっきりしない。広島県の教材は、元就はこの城で生まれたとしている。安芸高田市は、母の実家の福原氏の鈴尾城を元就の誕生の伝説地として紹介し、それを裏づける史料はないとしている。

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参考にした資料

  • 安芸高田市教育委員会『史跡毛利氏城跡(郡山城跡)保存活用計画』(2021年3月)(毛利氏が承久の乱のあと吉田荘を得て、14世紀に吉田荘に入ったとされること・本拠としての城が確認されるのは1453年の記事以降で、15世紀中ごろには南東部に本城があったと推定されること・「郡山」が高宮郡の郡衙の所在地を示す地名であること・1500年に元就が父とともに多治比猿掛城に移り、1523年に27歳で本城に入ったこと・1540年ごろ本城があったこと・1546年の隆元の相続後、山頂の元就と遠いため隆元が住まいを移したこと、1551年に麓の堀が延ばされ、このころまでに郡山全域に広がったらしいこと・城内の座敷や風呂などの記載・戦国大名の山上居住を同時代の史料と遺構の両方で確かめられるのは全国で郡山城跡だけとする評価・1584年の麓の堀の掃除と堀普請、城内の普請の予定・16世紀末の中枢部の石垣の改修・文禄年間に隆景らが吉田で参会した記録・1591年の広島城入城後も、1600年の関ヶ原の戦いのあとの防長移封まで使われていた可能性が高いとする見方・石垣の破城の跡・広島藩の山奉行の管理・島原の乱に伴い惣堀が埋められたとする記録・長州藩の50年ごとの墓参・1931年の「百万一心」碑と伝説・1940年と1988年の指定と名称・270の郭と、郭の名が18世紀以降の地誌に記された地元の呼び名であること・遺構の大半が16世紀中ごろ以降のものであること・中枢部を中心に採集された500点を超す輸入陶磁・洞春寺跡と常栄寺跡の墓所)
  • 広島県立文書館「広島県史年表(中世2)」(1523年の幸松丸の死、家臣15名が元就の郡山入城を請い、8月10日の登城が決まったこと・1540年9月4日の尼子詮久の多治比の陣と3万の軍勢・9月12日の大田口などでの合戦・9月23日の青山・三塚山への陣替・10月11日の青山での合戦ほか12月までの各地の合戦・大内氏の警固船が10月に厳島に着き兵を上陸させたこと・12月3日の陶隆房の後詰と1万の軍勢・1541年1月13日に宮崎長尾の尼子軍を切り崩し尼子軍が敗走したこと・5月の安芸武田氏の滅亡・1571年6月14日に元就が吉田郡山城で没したこと・1589年の広島築城の鍬始・1591年の輝元の広島下向)
  • 秋本哲治(安芸高田市歴史民俗博物館)「安芸郡山合戦と出雲尼子氏の陣城」2025年古代出雲文化シンポジウム「島根県の戦国時代と城」報告資料、島根県古代文化センター(郡山合戦を攻城戦(籠城戦)とする通説・合戦の経過と、城の周りの村への放火・陶隆房の厳島からの上陸・宮崎長尾と三塚山の戦いと、その夜の尼子軍の退却と毛利軍の追撃、石見での江の川の渡河の死傷・航空レーザ測量による微地形表現図と現地の調査・尼子方と大内方の陣城の分布と、北側に遺構がないこと・尼子軍は城を包囲していない可能性が高いという見方・9〜11月に城への本格的な攻撃がみられないこと・尼子軍の目的を安芸の尼子方勢力の支援とみる見方・宮崎長尾が光井山(三塚山)の北の丘陵にあること)
  • 広島県「郷土ひろしまの歴史 戦国大名とひろしま〜毛利元就〜」(元就の生年・1516年の兄の死と幸松丸の相続・1525年に元就が尼子氏から離れ大内氏と結んだこと・1540年に元就が城にこもって迎え撃ち、翌年1月に撃退したこと・安芸の守護大名で尼子氏に支えられた安芸武田氏の滅亡・元就がこの城で生まれたとする年表)
  • 島根県「島根歴史講座 尼子家の『御一家再興』戦争と山中幸盛」講座資料(1539年ごろの尼子氏の安芸・備後への出兵と毛利氏との対立・1540年の詮久の吉田郡山城攻撃と翌年正月の撤退・備中・備後・安芸・石見の国衆の離反・1542年の大内義隆の出雲侵攻の開始と、その後の富田城の攻撃、1543年の撤退)
  • 安芸高田市歴史民俗博物館「郡山城跡見どころ紹介」(1523年に元就が入ったのが南東の本城だったこと・本城の標高と比高、元就が全山を城にするまで中心だったこと・元就が家督を譲ったあと山頂に住み、亡くなるまで政務をとったこと)
  • 安芸高田市歴史民俗博物館「毛利氏関係史跡(当博物館周辺)」(1336年に毛利時親が吉田に入ったこと・元就の墓所と毛利一族の墓所、隆元の墓所・「百万一心」の伝説と、今の碑が1931年に元就墓所に建てられたこと)
  • 安芸高田市「多治比猿掛城跡(吉田町)」(1500年に4歳の元就が父の隠居に伴って吉田郡山城から移り、本家を継いで戻るまで過ごしたこと・郡山城跡から北西4キロにあること)
  • 安芸高田市「毛利元就誕生伝説地(鈴尾城跡)(吉田町)」(母の実家の福原氏の鈴尾城が誕生の伝説地とされ、それを裏づける史料がないこと)
  • 広島市「広島の歴史」(1589年に太田川デルタで築城を始め、1591年に輝元が入城したこと・海陸交通の要衝に本拠を移す必要があったこと・関ヶ原の後に防長2か国へ移されたこと)
  • 文化庁「文化遺産オンライン」毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡(1940年の指定の説明が、輝元の広島への移城により1591年に廃城としていること)
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡(史跡としての名称・所在地が安芸高田市吉田町であること)