要点
- 追われた将軍を保護した。1493年の明応の政変で京都を追われた足利義稙は、各地を流れたのち山口の義興を頼った。義興は義稙を10年近く庇護した。
- 将軍を奉じて上洛した。1508年、義興は大軍を率いて上洛し、義稙を将軍に復位させた。細川高国と結び、自らは管領代として幕政を担った。
- 日明貿易を握った。京都滞在中、義興は幕府の権威を使って明との貿易を大内氏の手に集めた。1523年の寧波の乱で細川氏の船と争ったのはその延長である。
- 留守中に尼子氏が伸びた。10年の在京の間に、出雲の尼子経久が山陰・山陽へ勢力を広げた。1518年に帰国した義興は、以後の生涯を尼子氏との争いに費やす。
- 陣中で死去した。1528年、安芸方面の尼子方を攻める途上で病を得て山口へ戻り、翌1529年に死去した。家督は義隆が継いだ。
何をした人物か
義興は1495年に父・大内政弘の死により家督を継ぎました。政弘は応仁の乱で西軍の主力を務めた人物で、義興はその大内氏の力をそのまま受け継ぎます。1493年、細川政元が将軍足利義稙を追って義澄を立てると(明応の政変)、義稙は流浪の末に山口の義興を頼りました。義興は義稙を丁重に迎え、再び将軍に立てる機会をうかがいます。
1507年に政元が暗殺されて細川氏が分裂すると、義興は翌1508年、義稙を奉じて上洛しました。義稙は将軍に復位し、義興は細川高国と協力して幕政を動かします。義興が任じられた「管領代」は、管領の細川高国に代わって政務を担う立場で、西国の一大名が幕府の中枢を握った形です。この間、義興は明との貿易も大内氏のもとに集め、山口の繁栄の土台を作りました。
しかし10年にわたる在京は、領国の留守を意味しました。出雲では尼子経久が勢力を広げ、大内氏の影響下にあった安芸・石見の国衆が尼子方に転じます。1518年に帰国した義興は、以後、尼子氏との争いに追われました。1528年、安芸への出陣中に病を得て山口に戻り、翌年死去します。義興の時代は大内氏の家格と経済力が頂点に達した時期であり、同時に尼子氏という宿敵が生まれた時期でもありました。
年表で追う
- 011477年:誕生
大内政弘の子として生まれる。
- 021495年:家督相続
父の死により大内氏の当主となる。
- 031499年:足利義稙を迎える
京都を追われた前将軍・義稙を山口で保護する。
- 041508年:上洛
義稙を奉じて上洛し、将軍に復位させる。管領代となる。
- 051518年:帰国
10年の在京を終えて山口へ戻る。尼子経久との争いが始まる。
- 061529年:死去
尼子方との戦いの途上で病死。家督は義隆へ。
義興を読むときに気をつけたいこと
- 「管領代」は正式な役職名ではない。義興が管領の高国に代わって政務を担った立場を指す呼び方で、幕府の職制に定められた官職ではない。
- 上洛の動機は一つではない。将軍を復位させる大義名分のほか、日明貿易の独占、細川氏の内紛への介入など、複数の狙いが重なっていたとみられる。
- 没年には諸説ある。1528年末とも1529年初めとも記され、史料によって幅がある。