事件・合戦ページ / 毛利元就が中国地方へ進む大きな転機

厳島の戦いいつくしまのたたかい

厳島の戦いは、1555年に毛利元就が陶晴賢すえはるかたを厳島で破った戦いです。元就はこの勝利をきっかけに、中国地方へ急速に勢力を広げます。ただし、これは突然の一夜の奇襲だけではありません。前年からの大内・陶との対立、厳島と本土の城、海の交通、毛利家の準備が重なった結果でした。

1555年毛利元就厳島(宮島)陶晴賢を破る
厳島神社と厳島の風景
厳島 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0

厳島の戦いとは?

  • 1555年、毛利元就が陶晴賢を厳島で破った。大内氏の実権を握った晴賢の軍が厳島の宮尾城を攻めるなか、元就は島へ渡って晴賢の陣を急襲した。
  • 元就は晴賢に従っていた。1551年の晴賢の謀反では元就は協力したが、1554年に決裂した。
  • 水軍が勝敗を分けた。毛利・小早川の水軍が陶方の援軍の渡海を防ぎ、来島村上氏の水軍200〜300隻の来援で海上を封鎖した。
  • 上陸からの急襲だった。元就は9月29〜30日に厳島の鼓が浦に上陸し、博奕尾を越えて、10月1日に晴賢の陣を攻め落とした。晴賢は島の大江浦で自害した。
  • 毛利氏が西国の主役になった。晴賢の死で大内氏は崩れ、元就は周防すおう・長門ながとへ進んで1557年に大内氏を滅ぼした。

何が起きた戦い?

陶晴賢とは

陶晴賢は大内氏の重臣で、1551年に主君の大内義隆おおうち よしたかを倒し、周防・長門を中心とする勢力の実権を握りました。

元就の自立

元就は陶氏の側から離れ、1554年に広島湾頭と厳島を押さえます。ここから本格的な対立が始まります。

島で戦う難しさ

厳島は海で隔てられた島です。兵を渡す船、退路、天候、地形が、陸上の戦い以上に勝敗へ関わります。

戦後の意味

陶晴賢を破った毛利家は急速に中国地方へ勢力を広げます。輝元の広島城へつながる出発点です。

ざっくり年表

1551
陶晴賢が大内義隆を倒します。
1554年5月
毛利元就もうり もとなりが陶氏と断交し、厳島と広島湾頭の城を押さえます。
1554年6月
折敷畑の戦いで、毛利軍が陶氏の家臣を破ります。
1555年秋
陶晴賢が厳島へ渡り、毛利方の宮尾城を攻めます。
1555年10月
毛利軍が厳島で陶軍を破り、晴賢は自害します。
その後
毛利家は中国地方への勢力拡大を加速させます。

奇襲だけで覚えない

厳島は「少ない毛利軍が大軍の陶軍を奇襲した戦い」として有名です。けれど勝利の前には、元就が本土の城を押さえ、厳島を確保し、陶氏側の城を削っていく準備がありました。

また厳島は島です。海の交通を押さえること、どこから上陸するか、退路がどうなるかが重要でした。元就の勝利を一つの天才的な作戦だけにせず、戦場の条件と事前の積み重ねから見ると面白くなります。

なぜ元就は厳島を決戦場にしたのか

宮尾城を橋頭堡にする

毛利方は厳島北岸の宮尾城を確保しました。小さな城でも、島へ兵を送り、陶軍の動きを引きつける足場になります。

大軍の動きを狭める

島では上陸地点と移動経路が限られ、船がなければ退路も狭まります。兵力で勝る陶軍の利点を、そのまま発揮しにくい戦場でした。

海を渡る準備が要る

毛利軍も海上輸送なしには戦えません。渡海・上陸と、博奕尾を越える山越えからの攻撃を組み合わせられたことが、奇襲を成立させました。

厳島だけの一夜戦ではない

前年から広島湾頭の城をめぐる攻防が続いていました。宮尾城の構築、陶方の進出、渡海の準備という長い過程の先に決戦があります。

勝利の後、毛利氏はすぐ中国地方を統一したのか

厳島で陶晴賢を失った大内方は急速に弱体化し、毛利氏は周防・長門へ進出します。1557年には大内義長が自害し、戦国大名としての大内氏は滅びました。厳島は、安芸の国衆くにしゅうだった毛利氏が西中国の主導権を握る決定的な転機です。

ただし、一戦だけで中国地方全域が毛利領になったわけではありません。山陰には尼子氏があり、石見銀山や各地の国衆をめぐる戦いも続きます。「厳島で完成」ではなく、元就・元春・隆景がさらに領国を広げる出発点として見ると、その後がつながります。

厳島の戦いについてのよくある疑問

なぜ晴賢は厳島に上陸したのか?

元就は1554年に厳島を支配下に置き、島の宮尾城を改修して守りを固めました。晴賢がこの城を攻めるよう仕向けたとされ、元就が偽の情報を流して誘い出したという話も伝わりますが、こうした謀略の話は江戸時代の軍記物によるもので、史実とは言いがたいとされます。厳島は政治・経済・宗教・軍事の拠点で、陶方は5月・7月にも島を襲い、9月21日に晴賢自身が上陸しました。

兵力差はどれくらいだったのか?

晴賢軍2万に対して元就軍4千とする数字が知られていますが、後世の軍記物によるもので、確かめられていません。元就軍が少数だったことは確かとみられますが、数字そのものは伝承として読むのが適切です。

村上水軍はなぜ元就についたのか?

小早川隆景は、合戦の半年前に因島の村上吉充へ所領を約束しており、合戦直前の9月28日には来島の水軍200〜300隻が毛利方の加勢に着きました。能島の村上武吉も陶方の軍船を破ったとされます。水軍の協力で元就は厳島へ渡り、海上を封鎖して陶方の援軍を島へ渡らせないことができました。瀬戸内の水軍を動かした隆景の役割は大きかったとされます。

陶晴賢は「逆臣」だったのか?

主君の大内義隆を討ったことから逆臣とされてきましたが、近年は大内氏の一族として家を立て直そうとした行動と読む見方もあります。詳しくは陶晴賢すえ はるかたで整理しています。

5問クイズ

Q1. 厳島で陶晴賢を破った人物は?

A. 毛利元就です。

Q2. 戦いが起きた年は?

A. 1555年です。

Q3. 戦場は島か、本土か?

A. 厳島という島です。

Q4. 陶晴賢が倒した主君は?

A. 大内義隆です。

Q5. 厳島後に元就を支える二人は?

A. 吉川元春きっかわもとはると小早川隆景です。

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参考にした資料