村上水軍とは?
- 海の道を預かった三家。14世紀中頃から瀬戸内海で活動した一族で、能島・来島・因島に本拠を置く三家からなり、後世には三島村上氏とも呼ばれた。
- 平時と戦時で仕事が変わる。平時は水先案内・海上警固・海上運輸を担い、戦時は小早船(小型で速い軍船)を操って火薬を用いた戦いを得意とした。
- 収入は海の通行料。航路の要所に海の関所を置いて通る船から関銭(通行税にあたる銭)を取り、水先案内や警備の対価として警固料を得た。
- 従う相手は固定されない。伊予国守護の河野氏の重臣に列しながら、周りの大名の間で従属と離反を繰り返した。
- 終わりは秀吉の政策。1588年の海賊停止令で私的な海上支配が解体され、三家はそれぞれ別の道へ進んだ。
村上水軍は、海で何を引き受けていたのか
- 幕府船の警固役として史料に現れた。1349年、能島村上家を指す「野嶋」の名が、幕府の船を警固する役として史料に初めて登場する。
- 航海の安全を保障した。掟に従って通る船の安全を引き受け、瀬戸内海の交易と流通の秩序を支えた。
- 戦いでは火薬を用いた。「ほうろく火矢」と呼ばれる火薬を用いた戦い方を得意とした。
- 島と沿岸に水軍城を築いた。島々や沿岸の要害の地に水軍城(海に面した城=海城)を築き、潮の速い瀬戸をにらんだ。
こうした仕事が成り立ったのは、芸予諸島が潮の流れの速い海の難所だったからです。地元の海を知る者の案内なしに大きな船が通り抜けるのは難しく、案内と警固に対価を払う相手がいました。能島村上家の全盛期には、その勢力が西は北部九州から東は塩飽諸島までの海上交通に及びました。
三家は、どの海を分け持っていたのか
- 因島村上家は安芸地乗り。安芸(今の広島県側)の沿岸に沿って進む航路を押さえた。
- 能島村上家は沖乗り。能島城を中心に、芸予諸島の中央を通過する最短の航路を押さえた。
- 来島村上家は伊予地乗り。来島城を中心に、伊予(今の愛媛県側)の沿岸に沿って進む航路を押さえた。
- 三家が連携して全域を握った。別々の航路を分け持ち、三家がつながることで芸予諸島の全域を掌握した。
各家は本拠の城を中心に、沿岸へいくつもの海城を築きました。海城の対岸には「水場」と呼ばれる補給の地があり、その一帯が城下の集落として暮らしの本拠になります。三家は同じ村上姓を名乗って強い同族意識を持ちつつ、連携と離反を繰り返しました。伊予国守護・河野氏の重臣の家格である一門三十二将・侍大将十八家に列し、船大将も兼ねたと伝わります。
なぜ通る船から通行料を取れたのか
- 取り立ての基準は三通りあった。帆の広さによる帆別銭、積荷の多少による荷駄別役銭、櫓の数による櫓別銭など、船の大きさや積荷に応じて関銭を徴収した。
- 海の関所を「札浦」といった。通行料を取る関所で、全盛期には九州北部から畿内の要港にまで置かれた。
- 通行を許す証は旗だった。1586年、芸予諸島を通ろうとした宣教師ルイス・フロイスが通行の許しを求めると、紋章入りの絹の旗と署名が渡され、「怪しい船に出会った時にみせるがよい」と告げられた。この旗が後に「過所船旗」と呼ばれる。
- 島は物流の拠点でもあった。能島城のそばの見近島は、中国産の陶磁器や備前焼を一時的に保管する物資の基地だった。
旗を配り、あるいは水先案内の者を船に乗せて先導することで、他の海賊や潮の難所から船を守る。その対価が通行料でした。海の難所であるほどこの掟は重みを持ち、大名や商人の船はそれに従うことで航海の安全を確保しています。
村上水軍は、なぜ一つの大名に収まらなかったのか
- 従う相手を利害で選んだ。河野氏の重臣団に属しながら、山名・大内・毛利・小早川・大友などの間で従属と離反を繰り返した。
- 三家で仕えた先が違う。因島村上家は周防国の大内氏に仕えたのち毛利氏の有力な海の勢力となり、来島村上家は伊予国守護の河野氏の重臣として活動した。
- 能島の独立性が最も強い。村上武吉の時代には、周りの戦国大名と友好・緊張を行き来しながら独自の姿勢を貫いた。
- 信長と秀吉の勧誘が団結にひびを入れた。来島家は信長の勧誘に応じて織田方に転じ、能島の武吉は秀吉の勧誘に応じずに毛利氏へ従い続けた。
大名たちが三家を取り込もうとしたのは、瀬戸内海の航路を押さえる力が、軍事と海運の両方を左右したからです。三家の側から見れば、従う相手を選べることが独立を保つ手立てでもありました。
大きな海戦で、村上水軍はどう動いたのか
- 011555年:厳島の戦い
村上水軍は毛利元就を支援して勝利をもたらしました。この加勢を契機に、三家は毛利氏へ接近していきます。
- 021576年:第一次木津川口の戦い
毛利方として摂津の木津川口に向かい、村上水軍が織田方を破りました。
- 031578年:第二次木津川口の戦い
同じ海域での二度目の戦いでは織田方の攻撃を受け、村上水軍は敗北を喫しました。
- 04信長の勧誘を受けた来島家が織田方へ
来島村上家が織田方に転じ、毛利氏・河野氏の両方と対立しました。三家の足並みが分かれた最初の分岐点です。
来島家が織田方に転じてからは、互いに敵味方へ分かれます。それぞれの戦いの経過は各合戦のページで扱っています。
村上水軍は、どのように終わったのか
- 011585年:四国平定
小早川隆景の率いる大軍で伊予国が平定され、河野通直が降伏しました。三家の後ろ盾だった伊予の体制が失われます。
- 021588年:海賊停止令
村上水軍をはじめ各地の水軍は瀬戸内海の表舞台から姿を消しました。この法令は資料によって「海賊禁止令」とも書かれます。
- 031615年:一国一城令
島々や沿岸に築かれていた海城の群れは、四国平定で次々と落城・廃絶し、この令でとどめを刺されました。
能島と因島は毛利家の舟手衆へ
能島村上家は1586年、小早川隆景の指示に従って来島海峡の要害から撤収し、水軍を解体しました。周防国屋代島へ移り住み、大内氏から毛利氏へ移っていた因島村上家とともに、毛利氏の家臣団に編入されて舟手衆を務めます。海賊停止令の後の村上武吉は各地を転々とする不遇の日々を送り、晩年は周防大島に隠棲して1604年に没しました。
来島は秀吉が取り立てた大名へ
来島村上家は早くから秀吉方につき、四国平定で活躍して「来島」と姓を改めました。通総は風早郡に1万4千石の領地を与えられ、三家で唯一の秀吉取り立て大名となります。通総は1597年の朝鮮出兵で奮戦して戦死し、子の康親が1601年に豊後国玖珠郡の森へ移りました。1616年には2代通春が「久留島」と改姓しています。
康親が森に移った後の石高は、1万2千5百石とする資料と1万4千石とする資料があり、書き方が分かれます。森は今の大分県玖珠町にあたり、海から離れた内陸の地でした。
三家の拠点は、今どうなっているのか
- 能島城跡は国の史跡。1953年3月31日に国の史跡へ指定され、管理団体は今治市。村上海賊の城として唯一の国指定史跡で、本丸・二の丸・三の丸の三段からなり、周りの岩礁には船をつなぐ柱を立てた穴が380個残る。秀吉の四国統一の後に廃城になったと推定されている。
- 来島城跡は小島の全体が城跡。周囲およそ850メートルの小島がそのまま城域で、速い潮の流れに守られた要塞だった。石垣・矢竹・古井戸が残るが、本丸跡へ向かう遊歩道は崩落のため立ち入れない。
- 因島には資料を集めた施設がある。広島県尾道市の因島水軍城は1983年に建てられた資料館で、武具・遺品・古文書を展示している。
- 芸予諸島は日本遺産に認定された。芸予諸島は2016年度、今治市と尾道市の共同申請で日本遺産「"日本最大の海賊"の本拠地:芸予諸島」に認定されました。
城の位置は、いずれも船を止められる瀬戸に向いています。
村上水軍についてのよくある疑問
「村上水軍」と「村上海賊」はどちらの呼び方なのか?
どちらも同じ集団を指します。「水軍」は江戸時代以降に用いられた呼称で、明治から昭和初期には近代海軍の前身と評価する見方が強かったため、この呼び方が広まりました。ただし「水軍」という言葉では、平時の水先案内や海上運輸まで含む多様な活動を言い表しきれません。そのため近年は、当時の古文書に見える「海賊」の呼称を用いることが多くなっています。
村上の一族はどこから来たのか?
三家がいつ、どこから芸予諸島に入ったのかは、史料では確定できません。系譜をたどる話は伝わりますが、はっきりしたことは分かっていません。確かなところは、1349年に「野嶋」の名が幕府船の警固役として史料に見え、そこから瀬戸内海の主要な航路を握る勢力へ成長したという線までです。
能島城跡と来島城跡は同じ扱いの史跡なのか?
扱いは分かれます。能島城跡は国の史跡に指定されていますが、来島城跡は国の文化財としては未指定で、日本遺産「日本最大の海賊」の本拠地:芸予諸島を構成する文化財の一つという位置づけです。指定の有無は残っている遺構の性格や調査の経緯によるもので、城としての重要度の順位を示すものではありません。
村上水軍は戦うだけの集団だったのか?
茶や香を嗜み、連歌を詠む文化人でもありました。今治市大三島の大山祇神社には、村上海賊が奉納した法楽連歌が伝わっています。海の安全を保障し、物資を保管し、通行の証を発行するという仕事は、戦闘よりも日々の運営に近いものでした。
村上水軍から次にたどる
厳島の戦い
村上水軍の加勢が勝敗を分け、三家が毛利氏へ近づく契機となった戦い。
第一次木津川口の戦い
1576年、毛利方として織田方を破った海戦。
第二次木津川口の戦い
1578年、村上水軍が敗北を喫した二度目の海戦。
毛利氏
能島・因島の両家を舟手衆として抱えた中国地方の大名。
河野通直
三家が重臣として仕え、四国平定で降伏した伊予の守護家の当主。
九鬼嘉隆
木津川口で村上水軍と戦った織田方の海の武将。
乃美宗勝
毛利方の海の武将として、村上水軍とともに木津川口へ向かった人物。
伊予国
来島・能島が拠点を置いた、河野氏の国。
刀狩
海賊停止令と同じ1588年に出された、秀吉の武器と身分の政策。
戦国の中国・瀬戸内
村上水軍が動いた海を含む、中国地方全体の流れ。
参考にした資料
- 今治市「村上海賊ミュージアム 施設について」(三家の定義と呼称の変遷)
- 文化庁 日本遺産ポータル「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島」(過所船旗・札浦・航路の分担・1349年の初出)
- 愛媛県生涯学習センター「瀬戸内の島々の生活文化(伊予水軍の活躍)」(関銭の種類・海戦・三家の結末・森藩移封の石高)
- 愛媛県生涯学習センター「村上武吉」(海賊停止令の後の武吉の動向)
- 愛媛県「能島城跡」(能島城跡が国指定史跡であること)
- 文化庁「能島城跡」(指定年月日・管理団体・城の構造)
- 文化庁 日本遺産ポータル「能島城跡」(国史跡としての位置づけ)
- 文化庁 日本遺産ポータル「来島城跡」(未指定であること・島の規模と現況)
- 今治市「来島城跡」(遊歩道の崩落による立入不可などの現況)
- 今治市「日本遺産」(2016年度の認定)
- 尾道市「日本遺産に認定されました」(今治市との共同申請の経緯)
- 尾道市「因島水軍城」(1983年建設と展示内容)
- 大分県玖珠町「歴史の紹介」(森藩の立藩と久留島への改姓・石高の別の書き方)