秀家を最初にどう覚える?
秀家を理解する四つの視点
人物と場所を置く
| 宇喜多直家 | 秀家の父。岡山城の前身となる拠点を築き、備前を基盤にした戦国大名です。 |
|---|---|
| 豊臣秀吉 | 秀家を重用し、豊臣政権の有力大名にした主君です。 |
| 豪姫 | 秀家の妻。前田利家の娘で、豊臣秀吉の養女でもありました。秀家と豊臣・前田のつながりを見る入口です。 |
| 石田三成 | 1600年に西軍側でともに動く人物。秀家は西軍の大将格として大きな役割を持ちます。 |
| 小早川秀秋 | 関ヶ原後、秀家に代わって岡山城と備前・美作を得た大名です。 |
| 八丈島 | 秀家が1606年に流された島。秀家はそこで長く生き、八丈島の流人史の最初の人物として知られます。 |
ざっくり年表
なぜ若くして大きな大名になれた?
岡山城は、秀家の仕事だった
岡山城の前身となる拠点を整えたのは父・直家ですが、本丸を石山から岡山へ移し、近世城郭として形づくっていったのは秀家です。天守、瓦、石垣を伴う城へ変わり、城下町は現在の岡山市中心部の土台になりました。
岡山城を秀秋の城としてだけ見ると、関ヶ原後の二年ほどしか見えません。その前に秀家が築城を進め、その後に秀秋、さらに池田家が整備を重ねます。城は一人の名将が完成させるものではなく、城主交代と時代の変化が重なったものです。
- 父・直家が岡山の基盤をつくる。
- 秀家が本丸を移し、本格的な近世城郭へ変える。
- 関ヶ原後に秀秋、さらに池田家へ城主が交代する。
西軍の大将格としての関ヶ原
三成だけの西軍ではない
西軍を三成だけの勢力と考えると、関ヶ原が小さく見えます。秀家は五大老の一人であり、西軍側の大将格として戦いました。
豊臣政権の有力者
秀家が西軍側に立つことは、秀吉の死後に豊臣政権の有力層がどう分かれたかを示します。
敗戦で失うもの
敗れたのは戦場だけではありません。岡山城、備前・美作の領地、宇喜多家の大名としての地位を失うことになります。
秀秋との交差
同じ岡山城は、秀家が失った後に秀秋が得ます。二人を並べると、関ヶ原後の大名配置の変化が具体的に見えます。
敗者の後半生を読む
ここだけ覚える
- 宇喜多秀家は、宇喜多直家の子で豊臣五大老の一人。
- 岡山城の本格的な築城を進め、城下町の土台をつくった。
- 関ヶ原では西軍側の大将格として戦い、敗れた。
- 敗戦後、岡山城と領地は小早川秀秋へ移った。
- 1606年に八丈島へ流され、1655年まで生きた。
秀家を読むときに気をつけたいこと
- 「秀吉に可愛がられた貴公子」の像と、関ヶ原の主力としての実績を分ける。秀吉の養女・豪姫を妻とし五大老に列した若い大名として語られるが、関ヶ原では西軍最大の1万7千の兵を率いて正面で戦った。
- 宇喜多騒動は、秀家の統率力不足だけでは説明できない。関ヶ原の前年に重臣が家を出た騒動は、検地や家臣団の再編をめぐる対立が背景にあり、秀家一人の問題ではない。
- 八丈島での50年は、記録が限られる。関ヶ原後に流され、1655年に八丈島で死去した。島での暮らしや前田家からの援助は伝わるが、細部は後世の記録による。
5問クイズ
Q1. 宇喜多秀家が築城を進めた城は?
A. 岡山城です。
Q2. 秀家が数えられた豊臣政権の有力者は?
A. 五大老です。
Q3. 関ヶ原で秀家がついた側は?
A. 西軍側です。
Q4. 秀家の後に岡山城へ入った大名は?
A. 小早川秀秋です。
Q5. 秀家が流された島は?
A. 八丈島です。
