広家をどう見る?
元春の家を継ぐ
広家は毛利元就の孫で、吉川元春の三男です。兄元長の死後に吉川家を継ぎ、元就の時代の両川から、次の世代へつながる人物です。
毛利家の中の判断
広家は1591年、豊臣秀吉から出雲富田12万石の領主に任じられます。関ヶ原では、毛利家全体の方針と吉川家の判断が完全に一つではありませんでした。広家は家を残すため、東軍・家康側に通じる交渉を試みます。
結果は防長二国
西軍として参加した毛利輝元の立場もあり、広家の交渉だけでは十分な結果を得られず、毛利家は周防・長門二国へ移されます。輝元はその後、1604年から新たな居城・萩城を築きました。
岩国を始める
広家は由宇に上陸して岩国へ入り、横山に岩国城(横山城)と居館「御土居」を築いて城下町づくりを始めます。1615年の一国一城令(大名一つに城一つとする命令)で山上の城は取り壊され、以後は御土居が中心となります。
ざっくり年表
関ヶ原を吉川家から見る
広家は毛利家のために東軍・家康側に通じ、毛利氏の領地保全を条件に、毛利軍の参戦を控えさせたと伝わります。しかし、西軍として参加した毛利輝元の立場もあり、毛利家の大きな減封は避けられませんでした。
ここで大切なのは、広家を単純に東軍の人、西軍を裏切った人と決めつけないことです。毛利家の大領地、輝元の立場、吉川家を残す必要、戦後の徳川政権という複数の事情が重なっています。
交渉の代償も小さくありませんでした。広家は家康からの参勤の内命に、病気などを理由に応じませんでした。これが原因で吉川家は長く大名として認められず、萩の毛利宗家に仕える家という扱いを受けます。吉川家が正式に大名と認められたのは、明治維新直前の1868年6月のことでした。
5問クイズ
Q1. 広家の父は?
A. 吉川元春です。
Q2. 広家が交渉した相手は?
A. 徳川家康側です。
Q3. 関ヶ原後、毛利家が移った二国は?
A. 周防・長門です。
Q4. 広家の新しい拠点は?
A. 岩国です。
Q5. 広家の判断を見るときに大事なことは?
A. 家全体の事情と戦後の結果を分けて見ることです。
参考にした資料
- 岩国市: 吉川氏がおさめた時代(1591年の出雲富田12万石、1600年の関ヶ原後の防長への移封、由宇上陸と1602年に岩国を本拠と決めたこと)
- 山口県: おもしろ山口学「絵図から読み解く吉川氏の“城下町”岩国」(横山城と居館「御土居」、1615年の一国一城令による破却、関ヶ原後の参勤拒否と大名認定の経緯)
- 山口県: 文化財要録「萩城跡」(関ヶ原後、防長両国へ移封された毛利輝元による1604年の築城)
- 山口県: おもしろ山口学「破却?! 失われた岩国城の真実」(岩国を本拠として横山を城地に選び、慶長8年(1603)から城づくりに着手したこと・慶長13年(1608)の工事完了)
- 岩国市教育委員会: いわくに文化財探訪「岩国城跡」(吉川広家が城山の山頂部に築き、慶長13年(1608)に完成したこと)
- 北広島町: 吉川家と北広島町の歴史(第4回)吉川広家(兄の元長が早く亡くなったので吉川家の当主となったこと)
- 山口県: 文化財要録「岩国藩主吉川家墓所」(広家が元春の三男で、兄元長の病死により家督を継いだこと)
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訂正の記録
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- 2026年10月1日 家督について「元春の後を継ぎ」と書き、父の元春から直接継いだように読めましたが、資料では兄の元長が亡くなったあとに吉川家を継いでいます。そのように直しました。
- 2026年10月1日 年表で、1602年に岩国城を築き始めたように書いていましたが、1602年は岩国を本拠と決めた年で、城づくりに着手したのは1603年、完成は1608年でした。そのように直しました。