人物ページ / 関ヶ原後の毛利家と岩国をつなぐ吉川家当主

吉川広家きっかわ ひろいえ

吉川広家は、吉川元春きっかわもとはるの三男で、その家を継いだ人物です。関ヶ原の時、毛利家の存続をどう守るかという難しい判断を迫られました。西軍として参加した毛利輝元のもと、広家は東軍・徳川家康側に通じ、毛利氏の領地保全を条件に参戦を控えさせたと伝わります。しかし戦後、毛利家は防長二国へ減封されました。広家はその後、由宇に上陸して岩国へ入り、横山に城と居館「御土居おどい」(堀で囲んだ屋敷)を構えて城下町づくりを始めます。関ヶ原を「寝返り」の一語で終わらせず、家を残すための交渉と結果から見る人物です。

元春の三男吉川家当主岩国関ヶ原後の毛利家

吉川広家を理解する要点

広家は兄元長の死後に吉川家を継ぎ、豊臣政権下では出雲富田12万石を領しました。1600年、毛利家が西軍側にいる中で、広家は東軍・家康側に通じ、毛利氏の領地保全を条件に参戦を控えさせたと伝わります。毛利家の防長二国への減封は防げませんでしたが、広家は由宇に上陸して岩国に入り、横山に城と居館「御土居」を築いて吉川家の新しい拠点をつくります。

  • 立場:元春の三男、兄元長の後継
  • 注目点:関ヶ原での交渉
  • 次につながる:岩国の城下町

広家をどう見る?

毛利家の中の判断

広家は1591年、豊臣秀吉とよとみ ひでよしから出雲富田12万石の領主に任じられます。関ヶ原では、毛利家全体の方針と吉川家の判断が完全に一つではありませんでした。広家は家を残すため、東軍・家康側に通じる交渉を試みます。

結果は防長二国

西軍として参加した毛利輝元の立場もあり、広家の交渉だけでは十分な結果を得られず、毛利家は周防すおう・長門二国へ移されます。輝元はその後、1604年から新たな居城・萩城を築きました。

岩国を始める

広家は由宇に上陸して岩国へ入り、横山に岩国城(横山城)と居館「御土居」を築いて城下町づくりを始めます。1615年の一国一城令(大名一つに城一つとする命令)で山上の城は取り壊され、以後は御土居が中心となります。

ざっくり年表

1591
豊臣秀吉から出雲富田12万石の領主に任じられます。
1600
関ヶ原の前後、広家は東軍・徳川家康側に通じ、毛利氏の領地保全を条件に参戦を控えさせたと伝わります。
関ヶ原後
西軍として参加した毛利輝元の立場もあり、毛利家は防長二国へ減封されます。広家は由宇に上陸して岩国へ入ります。
1602
岩国を本拠と決めます。
1603
横山の山上で岩国城の城づくりに着手し、1608年に完成させます。麓の居館「御土居」とともに城下町が整えられていきます。
1615
一国一城令により山上の岩国城は取り壊され、御土居が城下町の中心となります。
関ヶ原後〜明治維新
家康への参勤(江戸への出仕)を控えたことなどから、吉川家は長く大名として認められず、萩の毛利宗家に仕える家という扱いが続きます。
1868年6月
吉川家はようやく大名として認められます。

関ヶ原を吉川家から見る

広家は毛利家のために東軍・家康側に通じ、毛利氏の領地保全を条件に、毛利軍の参戦を控えさせたと伝わります。しかし、西軍として参加した毛利輝元の立場もあり、毛利家の大きな減封は避けられませんでした。

ここで大切なのは、広家を単純に東軍の人、西軍を裏切った人と決めつけないことです。毛利家の大領地、輝元の立場、吉川家を残す必要、戦後の徳川政権という複数の事情が重なっています。

交渉の代償も小さくありませんでした。広家は家康からの参勤の内命に、病気などを理由に応じませんでした。これが原因で吉川家は長く大名として認められず、萩の毛利宗家に仕える家という扱いを受けます。吉川家が正式に大名と認められたのは、明治維新直前の1868年6月のことでした。

5問クイズ

Q1. 広家の父は?

A. 吉川元春です。

Q2. 広家が交渉した相手は?

A. 徳川家康側です。

Q3. 関ヶ原後、毛利家が移った二国は?

A. 周防・長門です。

Q4. 広家の新しい拠点は?

A. 岩国です。

Q5. 広家の判断を見るときに大事なことは?

A. 家全体の事情と戦後の結果を分けて見ることです。

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参考にした資料

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