城・場所ページ / 豊臣と徳川、二つの城が重なる場所

大阪城おおさかじょう(大坂城おおさかじょう)

大阪城は、ただ秀吉が建てた有名な城ではありません。石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が築き、淀殿と秀頼が暮らし、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家が滅びた舞台です。さらに戦後、徳川幕府が豊臣期の城を埋めて築き直しました。いま目に見える城と、地下に残る豊臣の城。その二つを重ねて見ると、信長から秀吉、家康へ移る時代の大きな流れが読めます。

1583年に秀吉が築城開始 豊臣家の本拠 1615年に落城 現在の城は徳川期が土台
大阪城天守閣
大阪城天守閣 / Wikimedia Commons / Didier Moise / CC BY-SA 4.0

大阪城(大坂城)を見る要点

「大阪城」という一つの場所には、少なくとも三つの時代があります。石山本願寺の時代、秀吉・淀殿・秀頼の豊臣大坂城、そして豊臣城を覆うように再築された徳川大坂城です。現在の天守閣を見て、豊臣時代の城がそのまま残っているわけではない、と知るだけでも見え方が変わります。

  • 立場:秀吉が築いた天下人の城
  • 注目点:淀殿と秀頼がいた豊臣家の本拠
  • 転機:豊臣の城が地下に眠っている

まず「大阪城」と「大坂城」

戦国・江戸期は「大坂城」

秀吉や淀殿、秀頼、大坂の陣を語るときは、当時の表記である「大坂城」と書くのが歴史の流れに合います。このページでも豊臣・徳川の時代は基本的に大坂城と表記します。

現在の呼び方は「大阪城」

明治以降は「大阪城」の表記が一般的です。観光地・公園・現在の天守閣の話は大阪城と書きます。

豊臣期の大坂城

1583年に秀吉が築城を始めた城。秀吉の死後は、淀殿と秀頼が居館とし、豊臣家の本拠になります。

徳川期の大坂城

1615年の豊臣滅亡後、幕府が豊臣期の城を埋めるように再築しました。現在見える石垣・堀の基本は徳川期のものです。

大坂城を理解する四つの視点

  1. まず、石山本願寺があった交通・軍事上の要地だと知る。
  2. 次に、豊臣秀吉とよとみ ひでよしが天下統一の拠点として大坂城を築く流れを見る。
  3. その後、茶々・淀殿ちゃちゃ・よどどのと秀頼がいる豊臣家の城として考える。
  4. 最後に、徳川家康とくがわ いえやすとの対立、大坂冬の陣・夏の陣、徳川による再築へ進む。

なぜ、ここに大きな城が建った?

大阪城は上町台地の北端にあります。周囲には湿地が広がり、北側には淀川の本流が流れ、京都へ通じる水上交通にもつながる場所でした。守りやすさと、もの・人が動く交通の便利さを両方持った土地です。

秀吉より前には、この地に石山本願寺(大坂本願寺)がありました。宗主・本願寺顕如ほんがんじ けんにょは織田信長と長く戦い、1576年の第一次木津川口の戦いでは毛利方の船団が海上封鎖を破って兵糧を搬入しました。1570年からの石山合戦を経て本願寺が退去・焼失した後、秀吉は1583年にその跡地で大坂城の築城を始めます。

上町台地周囲の低地より高い地形。城の土台になり、見通しや防御にも利点がありました。
淀川京都方面とつながる大きな水の道。大坂が政治・物流の拠点になる背景の一つです。
石山本願寺跡秀吉がまったくの更地に城を置いたのではなく、すでに大きな宗教・軍事拠点だった土地を引き継ぎました。
城下町城を建てるだけでなく、西側の低地に町を整えたことが、のちの大阪の発展の土台になりました。

ざっくり年表

1533
この地に大坂本願寺が開かれます。のちに石山本願寺とも呼ばれ、城の前史になります。
1570-1580
石山合戦。顕如けんにょの退去後も教如が約五か月残り、教如きょうにょの退去後に本願寺は焼失します。
1583
羽柴(豊臣)秀吉が大坂城の築城を開始。天下統一を進める拠点になります。
1598
秀吉が死去。のちに秀頼と淀殿よどどのが大坂城にいる豊臣家の中心となります。
1600
関ヶ原の戦い後、豊臣家は大幅に領地を減らしつつも、大坂城を本拠とする大名家として残ります。
1614
大坂冬の陣。徳川方と豊臣方が大坂城をめぐって戦います。
1615
大坂夏の陣で豊臣方が敗れ、大坂城は落城。豊臣家は滅亡します。
1620
徳川幕府が大坂城の再築を開始。豊臣期の城は大量の盛り土で地下に埋められます。
1931
市民の寄付などにより、現在の鉄骨鉄筋コンクリートの天守閣が再建されます。

大阪城を人で見る

本願寺顕如ほんがんじ けんにょ石山本願寺を率いて信長と約十年戦い、1580年に講和してこの地を退去した宗主です。
本願寺教如ほんがんじ きょうにょ顕如退去後も門徒とこの地へ残り、約五か月抗戦を続けた長男です。
本願寺准如ほんがんじ じゅんにょ1577年に石山本願寺で生まれ、のちに京都の本願寺を継いだ顕如の三男です。
織田信長おだ のぶなが石山本願寺と戦った人物。大阪城の土地には、信長と本願寺の対立という前史があります。
豊臣秀吉とよとみ ひでよし1583年に築城を始めた天下人。大坂城を巨大な権威と都市づくりの拠点にしました。
茶々・淀殿ちゃちゃ・よどどの秀頼の母。秀吉没後、大坂城にいる豊臣家を考えるときの中心人物の一人です。
豊臣秀頼とよとみ ひでより秀吉の子。大坂城の豊臣家を背負う存在となり、1615年に淀殿とともに最期を迎えます。
徳川家康とくがわ いえやす豊臣家と対立する徳川側の中心人物。大坂の陣の後、幕府は城を再築します。
豊臣恩顧の大名・浪人大坂の陣では、豊臣家を支える人々が城に集まります。城は建物であると同時に、豊臣再興の期待が集まる場所でした。

豊臣大坂城は、今の大阪城と同じ?

同じ場所、同じ城ではない

同じ土地にありますが、豊臣期と徳川期では石垣・堀・地面の高さが異なります。現在見える城郭を、そのまま秀吉や淀殿が見た城だと思わないのが大事です。

豊臣の城は地下にある

豊臣家が滅びた後、幕府は再築のために盛り土を行いました。そのため豊臣期の石垣は長く地上から見えませんでしたが、発掘で確認されてきました。

「消えた」わけではない

豊臣期の城は地上では見えにくい一方、地下に遺構が残っています。大阪城豊臣石垣館では、発掘された豊臣期石垣を見ることができます。

現在の天守閣も別の時代のもの

現在の天守閣は1931年に再建された建物です。豊臣の天守、徳川の天守、昭和の天守を分けると、城の歴史が立体的になります。

大坂の陣を「城の中の家族」で見る

大坂の陣を「家康が豊臣家を滅ぼした戦い」とだけ覚えると、少し遠い話に見えます。大阪城の中には、秀吉の子である秀頼と、その母である淀殿がいました。秀吉が築いた城で、秀吉の死後に残された家族が豊臣家を背負っていた、と考えると場面が具体的になります。

ただし、淀殿がすべてを一人で決めた、といった単純な人物像にすると史実の理解から離れます。豊臣家の家臣、集まった浪人衆、朝廷・大名との関係など、多くの人と事情が重なった結果として大坂の陣があります。このページでは、まず城と人の確かなつながりを押さえることを優先します。

ここだけ覚える

  • 大阪城の地には、秀吉以前に石山本願寺があった。
  • 1583年、秀吉が大坂城を天下統一の拠点として築き始めた。
  • 秀吉の死後は、淀殿と秀頼がいる豊臣家の本拠になった。
  • 1614-1615年の大坂冬・夏の陣で豊臣家が滅び、大坂城は落城した。
  • 現在見える石垣・堀の基本は徳川期。豊臣の城は地下に残る。

5問クイズ

Q1. 秀吉が大坂城の築城を始めたのは何年?

A. 1583年です。

Q2. 大坂城が築かれた土地に、秀吉以前にあった大きな拠点は?

A. 石山本願寺です。

Q3. 秀吉の死後、大坂城にいた豊臣家の中心となる母子は?

A. 淀殿と豊臣秀頼です。

Q4. 豊臣家が滅び、大坂城が落城したのは何年?

A. 1615年、大坂夏の陣です。

Q5. 現在見える大阪城の石垣・堀の基本は、誰の時代に築き直されたもの?

A. 徳川幕府が再築した徳川期のものです。

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参考にした資料

大坂城は、建築だけでなく、豊臣家の人間関係と政権交代を重ねて見る必要があります。豊臣期の城の詳細な構造や大坂の陣に関わる各人物の役割には研究上の論点があるため、復元図や伝承は大阪城天守閣の展示・発掘成果と照らして読むことが大切です。