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肥前国ひぜんのくに

肥前国(ひぜんのくに)は、今の佐賀県と、壱岐・対馬を除く長崎県にあたる旧国です。戦国時代には、佐賀の国衆くにしゅうだった龍造寺氏が周りの国衆と一家ずつ起請文きしょうもん(神仏に誓って約束を書いた文書)を交わして肥前の大部分に勢力を広げ、平戸・横瀬浦・長崎には南蛮船が入って、大村氏・有馬氏がキリシタン大名になりました。

要点

龍造寺氏の広がりと、南蛮船の港

  • 龍造寺隆信は永禄2年(1559)に少弐しょうに氏を滅ぼし、天正6年(1578)に大友氏が耳川で大敗すると、筑後へも兵を進めた。
  • 天正12年(1584)、隆信が島原半島の沖田畷おきたなわてで有馬・島津の軍に討たれ、のちに龍造寺家の実権は重臣の鍋島直茂へ移った。
  • 南蛮船の港は、松浦氏の平戸から大村領の横瀬浦、そして長崎へと移り、長崎は天正8年(1580)にイエズス会へ寄進された。
  • 豊臣秀吉とよとみ ひでよしの九州平定(1587年)の後、長崎は秀吉に取り上げられ、今の唐津市には朝鮮出兵の拠点となる名護屋城なごやじょうが築かれた。

佐賀の国衆・龍造寺氏は、どうやって肥前の大部分をまとめた?

龍造寺氏は、相手の国衆ごとに中身の違う起請文を交わして、味方と従う家を少しずつ増やしました。 龍造寺氏は佐賀郡を本拠とする肥前東部の有力な武家で、もとは肥前の各地にいた国衆(数か村から数郡ほどを治めた在地の領主)の一つでした。一族は本家の村中龍造寺家を中心に、分家の水ヶ江龍造寺家などが集まる形をとっていました。

起請文の中身は、相手によって違います。神埼郡の江上氏と杵島郡の後藤氏(武雄)には隆信の子を養子に入れて家を継がせ、神代氏・草野氏・大村氏・小田氏などからは人質を取りました。一方、平戸と相神浦の二つの松浦氏や山代氏とは、対等に近い約束にとどまっています。起請文を交わした相手は、基肄きい郡・養父やぶ郡・高来郡を除く、肥前の大部分に及びました。

島原半島の有馬氏は、龍造寺氏に一貫して敵対してきた家です。天正7年(1579)6月、有馬鎮純(のちの晴信)は隆信の子・鎮賢(のちの政家)に起請文を出して事実上の同盟に入りましたが、誓ったのは鎮賢に敵対しないことだけで、傘下に入ったわけではありません。翌年に龍造寺氏が動員できる武家を書き上げた名簿『隆信公幕下着到』にも、有馬氏の名はありません。その有馬氏は、天正11年(1583)の末に龍造寺氏に背きました。

1548年3月
隆信が本家を継ぐ

水ヶ江家に生まれた龍造寺隆信(当時の名は胤信)が、村中家の当主の死を受けて、龍造寺氏の本家を継ぎました。

1553年
筑後から船で佐賀へ戻る

大友氏に通じた家臣に追われ、筑後の一木村(今の福岡県大川市)に身を隠していた隆信は、船で犬井道の燈堂あかしどうに上陸し、再起を図りました。

1555年
大友義鎮が肥前の守護に

豊後の大友義鎮(宗麟)は1553年、肥前はすでに「無主」(治める者がいない)だとして守護職を求め、1555年に幕府から肥前国守護職を得ました。実際には、このころ少弐氏はまだ残っていました。

1559年
少弐氏を滅ぼす

隆信は、少弐冬尚と千葉胤連の兄弟を滅ぼしました。

1563年
丹坂峠で有馬氏を破る

肥前西部で勢力を伸ばしていた有馬義貞を丹坂峠で破り、有馬氏の領国を崩しました。

1570年
今山の戦い

隆信が佐賀郡今山で大友八郎の軍を破りました。この勝利で龍造寺氏が戦国大名になったとする説がある一方、堀本一繁氏は、戦いの後に大友宗麟おおとも そうりんが隆信に忠義を尽くすよう命じた史料が残ることから、全体としてはむしろ大友氏が勝ったとみて、龍造寺氏が戦国大名になるのは1578年の大友氏の耳川での敗戦を待たねばならないとしています。西森駿汰氏は、耳川より前の元亀の末から天正の初めに、龍造寺氏がすでに大友氏の意図に反して独自に兵を動かしていたことから、この時期に戦国大名になったとみており、見方は分かれています。

1578年11月
耳川の後、筑後へ

大友氏が日向の耳川の戦いで島津氏に大敗すると、隆信は大友領の筑後へ兵を進め、蒲池鎮並・田尻鎮種らの筑後の国衆が従いました。

1584年3月24日
沖田畷の戦い

隆信は大軍で島原半島へ攻め込み、神代氏など半島の一部の豪族も龍造寺方に付きました。劣勢の有馬晴信は島津氏に援軍を頼んで迎え撃ち、海沿い・山の手・中央の三方から攻めた龍造寺軍は、大将の隆信が討たれて敗れました。

1584年10月
島津氏と和睦

大村衆をはじめ肥前南西部の国衆が龍造寺氏から離れるなか、隆信の子の龍造寺政家りゅうぞうじ まさいえと、龍造寺家晴・鍋島信生(のちの直茂)の3人が島津氏に起請文を出して和睦しました。

1586年11月
豊臣方へ

秀吉が九州へ兵を出すと、政家は豊臣方の毛利輝元もうり てるもとに島津氏との手切れを知らせ、豊臣の傘下に入りました。

肥前の中では、どこを誰が押さえていた?

龍造寺氏が押さえようとした相手は、西の有馬氏、東の大友氏、松浦地方の波多氏など、地域ごとに違いました。

地域中心主な勢力年と出来事
佐賀郡村中城龍造寺氏(本家の村中家、分家の水ヶ江家など)天正年間に村中城が整えられる
神埼郡—江上氏(もと少弐氏に従った国衆)1571年、隆信の次男(のちの江上家種)が跡継ぎとして入る
杵島郡武雄後藤氏(後藤貴明)1577年、隆信の三男・家信が貴明の養子に入る
基肄郡・養父郡—筑紫氏(大友氏の支配下)1587年、九州平定の後に一部が鍋島直茂に与えられる
松浦地方岸岳城(今の唐津市)波多氏(上松浦党かみまつらとうの盟主的な家)1592年に始まる文禄の役の際に領地を取り上げられる
平戸平戸松浦氏(松浦隆信〈道可〉)1542年、明の王直を保護し、その貿易で栄えたとされる
大村湾のまわり—大村氏(大村純忠。島原の有馬家からの養子)1578年、龍造寺氏と和睦し、人質を出す
島原半島日野江城有馬氏1590年、有馬晴信が日野江城の建物を改築する(イエズス会の報告)

南蛮船の港は、なぜ平戸から長崎へ移った?

港は、ポルトガル人と領主の関係しだいで動きました。 平戸の領主・松浦氏と不和になったポルトガル人は、布教を認めた大村純忠おおむら すみただの横瀬浦に移りました。その横瀬浦を襲って焼いたのは、武雄の後藤貴明です。貴明は大村家に生まれながら、純忠のために後藤家へ養子に出され、終生、純忠に敵意を持ったとされます。ポルトガル人はさらに福田を経て、よりよい港として長崎を見つけました。

1550年6月
平戸

ポルトガル船が平戸に入港し、同じ年にザビエルも上陸しました。領主の松浦隆信(道可)は、ポルトガルとの貿易を期待してキリスト教の布教を許しました。

1562年
横瀬浦

大村純忠の招きでポルトガル船が横瀬浦に入りました。翌1563年6月、純忠はこの地で洗礼を受けましたが、同じ年の11月、横瀬浦は攻撃を受けて壊されました。

1567年
口之津

島原半島の口之津(1562年に開港)にもポルトガル船が入りました。島原半島では、領主の有馬義直がキリシタンになり、領民もそれにならいました。

1571年
長崎

前年に開港の取り決めが結ばれていた長崎に、ポルトガル船が初めて入り、6つの町が作られ始めました。

1580年
長崎の寄進とセミナリヨ

4月、純忠は長崎の6町と茂木をイエズス会に寄進しました。貿易を根づかせ、領地の安全を守るねらいがあったといわれます。同じ年、有馬晴信ありま はるのぶの領内の有馬に、キリスト教の教育機関であるセミナリヨが置かれました。南島原市は、これを日本で初めてのキリスト教の教育機関と説明しています。

1582年1月
少年使節の出航

天正遣欧少年使節の4人が長崎を出航しました。4人は、大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の使者でした。

1584年
浦上の寄進

有馬晴信が、浦上村をイエズス会に寄進しました。

1587〜1588年
秀吉の直轄地へ

純忠が亡くなって約1か月後の1587年6月19日、秀吉はバテレン追放令を出し、1588年4月にはイエズス会の領地を取り上げて直轄地にしました。

九州平定から江戸時代まで、肥前の大名はどう入れ替わった?

隆信の死後、鍋島直茂は秀吉から龍造寺氏の領国の経営を認められ、政権は龍造寺氏から鍋島氏へ移りました。江戸時代の肥前は、大部分が鍋島氏の佐賀藩になり、ほかに唐津藩・平戸藩・大村藩・島原藩などが置かれ、基肄郡・養父郡の一部は対馬田代藩領、長崎は幕府の直轄地になりました。

1587年
九州平定の領地割り

九州平定の後、秀吉は筑前の箱崎で領地を割り振り、龍造寺政家には佐嘉・小城・三根・神埼・杵島・藤津・松浦の7郡、鍋島直茂には養父郡・基肄郡の一部を与えました。松浦氏や波多氏などは、龍造寺氏とは別の大名として扱われました。

1591年
名護屋城の築城

朝鮮出兵の拠点として名護屋城が築かれ始め、諸大名の分担で数か月で完成したといわれます。周りには130以上の大名の陣屋が並び、全国から20万人を超える人が集まったとされます。

1592〜1598年
直茂の渡海

名護屋城は1592年から7年間、朝鮮出兵の拠点になりました。鍋島直茂は1万2千人の軍勢を率いて海を渡っています。直茂は名護屋城を築く際に、佐賀の蓮池城の天守を差し出したとも伝わります。

1592年以後
波多氏が領地を失う

九州平定の後に領地を認められていた岸岳城の波多氏は、文禄の役の際に領地を取り上げられ、唐津には寺沢氏が入りました。

1600年
関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いで、鍋島氏は西軍につきました。唐津の寺沢氏は、この鍋島氏に備えて岸岳城に石垣を築き、大きく造り替えました。

1607年
勝茂が家督を継ぐ

直茂は、家督を子の鍋島勝茂なべしま かつしげ(佐賀藩の初代藩主)に譲りました。

1608〜1611年
佐賀城の完成

直茂・勝茂の親子が、龍造寺氏の村中城を広げる工事を進め、佐賀城を完成させました。

1616年
有馬氏が島原を去る

島原の藩主・有馬直純ありまなおずみが日向の延岡へ移され、大和の五条(今の奈良県五条市)から松倉重政まつくら しげまさが新しい藩主として入りました。

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参考にした資料