要点
龍造寺氏の広がりと、南蛮船の港
佐賀の国衆・龍造寺氏は、どうやって肥前の大部分をまとめた?
龍造寺氏は、相手の国衆ごとに中身の違う起請文を交わして、味方と従う家を少しずつ増やしました。 龍造寺氏は佐賀郡を本拠とする肥前東部の有力な武家で、もとは肥前の各地にいた国衆(数か村から数郡ほどを治めた在地の領主)の一つでした。一族は本家の村中龍造寺家を中心に、分家の水ヶ江龍造寺家などが集まる形をとっていました。
起請文の中身は、相手によって違います。神埼郡の江上氏と杵島郡の後藤氏(武雄)には隆信の子を養子に入れて家を継がせ、神代氏・草野氏・大村氏・小田氏などからは人質を取りました。一方、平戸と相神浦の二つの松浦氏や山代氏とは、対等に近い約束にとどまっています。起請文を交わした相手は、基肄郡・養父郡・高来郡を除く、肥前の大部分に及びました。
島原半島の有馬氏は、龍造寺氏に一貫して敵対してきた家です。天正7年(1579)6月、有馬鎮純(のちの晴信)は隆信の子・鎮賢(のちの政家)に起請文を出して事実上の同盟に入りましたが、誓ったのは鎮賢に敵対しないことだけで、傘下に入ったわけではありません。翌年に龍造寺氏が動員できる武家を書き上げた名簿『隆信公幕下着到』にも、有馬氏の名はありません。その有馬氏は、天正11年(1583)の末に龍造寺氏に背きました。
水ヶ江家に生まれた龍造寺隆信(当時の名は胤信)が、村中家の当主の死を受けて、龍造寺氏の本家を継ぎました。
大友氏に通じた家臣に追われ、筑後の一木村(今の福岡県大川市)に身を隠していた隆信は、船で犬井道の燈堂に上陸し、再起を図りました。
隆信は、少弐冬尚と千葉胤連の兄弟を滅ぼしました。
肥前西部で勢力を伸ばしていた有馬義貞を丹坂峠で破り、有馬氏の領国を崩しました。
隆信は大軍で島原半島へ攻め込み、神代氏など半島の一部の豪族も龍造寺方に付きました。劣勢の有馬晴信は島津氏に援軍を頼んで迎え撃ち、海沿い・山の手・中央の三方から攻めた龍造寺軍は、大将の隆信が討たれて敗れました。
大村衆をはじめ肥前南西部の国衆が龍造寺氏から離れるなか、隆信の子の龍造寺政家と、龍造寺家晴・鍋島信生(のちの直茂)の3人が島津氏に起請文を出して和睦しました。
秀吉が九州へ兵を出すと、政家は豊臣方の毛利輝元に島津氏との手切れを知らせ、豊臣の傘下に入りました。
肥前の中では、どこを誰が押さえていた?
龍造寺氏が押さえようとした相手は、西の有馬氏、東の大友氏、松浦地方の波多氏など、地域ごとに違いました。
| 地域 | 中心 | 主な勢力 | 年と出来事 |
|---|---|---|---|
| 佐賀郡 | 村中城 | 龍造寺氏(本家の村中家、分家の水ヶ江家など) | 天正年間に村中城が整えられる |
| 神埼郡 | — | 江上氏(もと少弐氏に従った国衆) | 1571年、隆信の次男(のちの江上家種)が跡継ぎとして入る |
| 杵島郡 | 武雄 | 後藤氏(後藤貴明) | 1577年、隆信の三男・家信が貴明の養子に入る |
| 基肄郡・養父郡 | — | 筑紫氏(大友氏の支配下) | 1587年、九州平定の後に一部が鍋島直茂に与えられる |
| 松浦地方 | 岸岳城(今の唐津市) | 波多氏(上松浦党の盟主的な家) | 1592年に始まる文禄の役の際に領地を取り上げられる |
| 平戸 | 平戸 | 松浦氏(松浦隆信〈道可〉) | 1542年、明の王直を保護し、その貿易で栄えたとされる |
| 大村湾のまわり | — | 大村氏(大村純忠。島原の有馬家からの養子) | 1578年、龍造寺氏と和睦し、人質を出す |
| 島原半島 | 日野江城 | 有馬氏 | 1590年、有馬晴信が日野江城の建物を改築する(イエズス会の報告) |
南蛮船の港は、なぜ平戸から長崎へ移った?
港は、ポルトガル人と領主の関係しだいで動きました。 平戸の領主・松浦氏と不和になったポルトガル人は、布教を認めた大村純忠の横瀬浦に移りました。その横瀬浦を襲って焼いたのは、武雄の後藤貴明です。貴明は大村家に生まれながら、純忠のために後藤家へ養子に出され、終生、純忠に敵意を持ったとされます。ポルトガル人はさらに福田を経て、よりよい港として長崎を見つけました。
ポルトガル船が平戸に入港し、同じ年にザビエルも上陸しました。領主の松浦隆信(道可)は、ポルトガルとの貿易を期待してキリスト教の布教を許しました。
大村純忠の招きでポルトガル船が横瀬浦に入りました。翌1563年6月、純忠はこの地で洗礼を受けましたが、同じ年の11月、横瀬浦は攻撃を受けて壊されました。
島原半島の口之津(1562年に開港)にもポルトガル船が入りました。島原半島では、領主の有馬義直がキリシタンになり、領民もそれにならいました。
前年に開港の取り決めが結ばれていた長崎に、ポルトガル船が初めて入り、6つの町が作られ始めました。
4月、純忠は長崎の6町と茂木をイエズス会に寄進しました。貿易を根づかせ、領地の安全を守るねらいがあったといわれます。同じ年、有馬晴信の領内の有馬に、キリスト教の教育機関であるセミナリヨが置かれました。南島原市は、これを日本で初めてのキリスト教の教育機関と説明しています。
天正遣欧少年使節の4人が長崎を出航しました。4人は、大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の使者でした。
有馬晴信が、浦上村をイエズス会に寄進しました。
純忠が亡くなって約1か月後の1587年6月19日、秀吉はバテレン追放令を出し、1588年4月にはイエズス会の領地を取り上げて直轄地にしました。
九州平定から江戸時代まで、肥前の大名はどう入れ替わった?
隆信の死後、鍋島直茂は秀吉から龍造寺氏の領国の経営を認められ、政権は龍造寺氏から鍋島氏へ移りました。江戸時代の肥前は、大部分が鍋島氏の佐賀藩になり、ほかに唐津藩・平戸藩・大村藩・島原藩などが置かれ、基肄郡・養父郡の一部は対馬田代藩領、長崎は幕府の直轄地になりました。
九州平定の後、秀吉は筑前の箱崎で領地を割り振り、龍造寺政家には佐嘉・小城・三根・神埼・杵島・藤津・松浦の7郡、鍋島直茂には養父郡・基肄郡の一部を与えました。松浦氏や波多氏などは、龍造寺氏とは別の大名として扱われました。
朝鮮出兵の拠点として名護屋城が築かれ始め、諸大名の分担で数か月で完成したといわれます。周りには130以上の大名の陣屋が並び、全国から20万人を超える人が集まったとされます。
名護屋城は1592年から7年間、朝鮮出兵の拠点になりました。鍋島直茂は1万2千人の軍勢を率いて海を渡っています。直茂は名護屋城を築く際に、佐賀の蓮池城の天守を差し出したとも伝わります。
九州平定の後に領地を認められていた岸岳城の波多氏は、文禄の役の際に領地を取り上げられ、唐津には寺沢氏が入りました。
関ヶ原の戦いで、鍋島氏は西軍につきました。唐津の寺沢氏は、この鍋島氏に備えて岸岳城に石垣を築き、大きく造り替えました。
直茂は、家督を子の鍋島勝茂(佐賀藩の初代藩主)に譲りました。
直茂・勝茂の親子が、龍造寺氏の村中城を広げる工事を進め、佐賀城を完成させました。
島原の藩主・有馬直純が日向の延岡へ移され、大和の五条(今の奈良県五条市)から松倉重政が新しい藩主として入りました。
肥前国から、次に読む
龍造寺隆信
水ヶ江城に生まれ、肥前だけでなく筑後・肥後・筑前の国衆からも起請文を集めた当主。
鍋島直茂
天文7年(1538)に本庄館で生まれ、隆信のもとで大友氏の佐賀攻めを防いだ重臣。
沖田畷の戦い
三方から攻めた龍造寺軍が敗れるまでの経過と、島原市に残る隆信の供養塔。
起請文とは
龍造寺氏が国衆をつないだ「誓いの文書」が、どんな形をしていたか。
大村純忠
島原の有馬家から大村家へ養子に入った当主。大村市は、日本初のキリシタン大名と紹介している。
有馬晴信
ヴァリニャーノから洗礼を受けた、日野江城を居城とする島原半島のキリシタン大名。
平戸
1609年にオランダ商館が置かれ、1641年に長崎の出島へ移るまで貿易が続いた松浦氏の港。
長崎
1597年、宣教師と信者26人が西坂で処刑された港町。
名護屋城
城跡と23か所の大名の陣跡が国の特別史跡になっている、出兵拠点の城。
島原の乱
有馬氏が去った島原半島で、1637年に起きた一揆。
筑後国
いったん隆信に従った国衆・蒲池鎮並を、1582年に隆信が謀殺して滅ぼした隣国。
肥後国
九州平定の後に起きた国衆の一揆で、秀吉が鍋島直茂にも鎮圧を命じた隣国。
筑前国
1558年、国境に近い早良郡曲淵の領主が、確認できる中で最初の隆信あての起請文を出した隣国。
参考にした資料
- 佐賀県教育委員会「この本を読むみなさんへ」(佐賀県が昔、長崎県の本土とともに一つの国を成し、肥前国と呼ばれていたこと)
- 長崎県「長崎県のすがた」(明治9年に長崎県が肥前・壱岐・対馬の3国21郡の県となり、明治16年に佐賀県が分かれて今の長崎県になったこと)
- 長崎県「沿革」(今の長崎県域が明治維新まで天領と佐賀・大村・島原・平戸などの藩に分かれていたこと)
- 九州歴史資料館「大宰府史跡紹介」(古代の九州が西海道と呼ばれたこと・基肄の読み)
- 西森駿汰「戦国大名龍造寺氏と国衆の関係について」大阪公立大学『人文研究』75(佐賀郡を本拠とした龍造寺氏と村中家・水ヶ江家・1548年の家督継承・国衆の意味・1553年の大友義鎮の守護職要求と1555年の獲得・1559年の少弐冬尚と千葉胤連の滅亡・1563年の丹坂峠・今山合戦の評価をめぐる説・江上氏と後藤氏への養子入り・人質を出した家と対等に近い松浦氏ら・起請文の範囲が基肄・養父・高来の3郡を除く大部分に及んだこと・1578年の大村純忠との和睦・耳川後の筑後進出・1579年の有馬鎮純の起請文で有馬氏が事実上の同盟に入ったが傘下ではないこと・1580年の着到に有馬氏の名がないこと・1583年末の有馬氏の離反・沖田畷後の南西部国衆の離反・1584年10月の島津氏との和睦・1586年11月の豊臣方への転換・松浦氏と波多氏が別の大名として扱われたこと・1558年の曲淵房助の起請文・1582年に隆信が蒲池鎮並を謀殺したこと・隆信が筑後・肥後・筑前の国衆からも起請文を受けたこと)
- 佐賀県「佐賀県の埋蔵文化財」(龍造寺氏が西の有馬氏・東の大友氏・松浦地方の波多氏などを押さえたこと・隆信の戦死後に鍋島氏が実権を握ったこと・江戸時代に肥前の大部分が佐賀藩で、唐津藩と対馬田代藩領があったこと)
- 佐賀市「龍造寺隆信誕生地・燈堂・鍋島直茂誕生地ほか」(隆信の水ヶ江城での誕生・直茂が1538年に本庄館で生まれ、大友義鎮の佐賀城攻略を阻んだこと・1553年に筑後一木村から船で燈堂に上陸したこと・直茂が秀吉から龍造寺氏の領国経営を認められたこと・1607年に勝茂へ家督を譲ったこと)
- 佐賀県「佐賀城跡」(天正年間に整備された村中城を、直茂・勝茂親子が1608年から1611年の総普請で佐賀城として完成させたこと)
- 島原市教育委員会「沖田畷合戦場跡 龍造寺隆信供養塔」(1584年3月24日の合戦で神代氏らが龍造寺方に付き、有馬晴信が島津氏に援軍を頼んだこと・三方からの攻撃と隆信の戦死・隆信の供養塔が島原市にあること)
- 大村市「キリシタン大名大村純忠」(純忠が有馬家からの養子であること・大村市が純忠を日本初のキリシタン大名と紹介していること・武雄の後藤貴明が大村家に生まれて後藤家へ養子に出され、純忠に敵意を持ったこと・1587年の死去)
- 大村市「大村純忠と南蛮貿易」(松浦氏と不和になったポルトガル人が横瀬浦へ移ったこと・横瀬浦が後藤貴明に襲われたこと・福田を経て長崎を開いたこと・寄進のねらい・九州平定後に長崎が秀吉に取り上げられたこと)
- 長崎県文化財データベース「南蛮船来航の地」(1562年の横瀬浦入港・翌年6月の純忠の受洗・同年11月の破壊)
- 平戸市「景観計画」第2章(1542年に松浦隆信〈道可〉が王直を保護したこと・1550年6月のポルトガル船入港とザビエルの上陸・隆信が貿易を期待して布教を許したこと・1609年のオランダ商館設置と1641年の出島への移転)
- 長崎市「歴史年表 室町時代・安土桃山時代・江戸時代」(1570年の開港協定・1571年の初入港と6か町・1580年4月の長崎と茂木の寄進・1582年の少年使節の出航・1584年の浦上村の寄進・1587年6月19日のバテレン追放令・1588年4月の知行所没収・1597年の西坂での26人の処刑)
- 長崎市「ナガジン! バテレン追放令」(有馬晴信が肥前の戦国大名で洗礼を受けたこと・少年使節4人が大友・有馬・大村の使者だったこと・追放令が純忠の死の約1か月後だったこと)
- 南島原市「市の歴史」(有馬義直の改宗・1562年の口之津開港と1567年のポルトガル船入港・1637年10月の島原・天草一揆)
- 南島原市「セミナリヨ・コレジヨ/天正遣欧少年使節」(1580年、有馬晴信の治世下で有馬にセミナリヨが置かれたこと・南島原市がこれを日本で初めてのキリスト教の教育機関と説明していること)
- 南島原市「日野江城跡」(日野江城が有馬氏の居城で、1590年に有馬晴信が建物を改築したとイエズス会の報告書にあること)
- 文化遺産オンライン「鍋島直茂宛て豊臣秀吉朱印状」(1587年に箱崎で政家に7郡、直茂に養父郡・基肄郡の一部が与えられたこと・肥後の一揆の鎮圧が命じられたこと・養父と基肄の読み)
- 佐賀県立名護屋城博物館「名護屋城とは」(1592年から7年間の出兵拠点・130以上の陣屋と20万人を超える人々・名護屋城跡と23か所の陣跡が特別史跡であること)
- 佐賀県立名護屋城博物館「名護屋城跡」(1591年に築城が始まり、割普請で数か月で完成したといわれること)
- 佐賀県立名護屋城博物館「鍋島直茂」(蓮池城の天守を献上したと伝わること・1万2千人を率いて渡海したこと)
- 唐津市「県指定史跡 岸岳城跡」(岸岳城が上松浦党の盟主的な波多氏の本城だったこと・九州平定後の安堵と文禄の役の際の改易・寺沢氏の入部・関ヶ原で西軍の鍋島氏に備えた岸岳城の改修)
- 長崎県「原城への道程(その1)」(1616年に有馬直純が延岡へ移り、奈良五条から松倉重政が島原の新しい藩主になったこと)