要点
名護屋城は、どう使われてきたのか
- 011591年、築城開始
九州平定後、秀吉は明の征服を決め、出兵の本営として名護屋を選んだ。10月ごろ着工し、翌年春には主要部が完成した。
- 021592年、文禄の役の開始
4月、日本軍が釜山に上陸。秀吉は名護屋に入り、出兵を指揮した。全国の大名が名護屋に集まり、陣屋を構えた。
- 03名護屋での秀吉
秀吉は名護屋で茶会や能を催し、黄金の茶室を持ち込んだと伝わる。母・大政所の危篤で一時大坂に戻った。
- 041593年、講和交渉と帰坂
明との講和交渉が始まり、秀吉は大坂へ戻った。名護屋には留守の大名が残った。
- 051597年、慶長の役
講和が決裂し、再び出兵。秀吉は名護屋には来ず、伏見から指揮した。
- 061598年、秀吉の死と撤兵
8月に秀吉が死去し、五大老は撤兵を決めた。名護屋城は役目を終え、廃城となった。
- 07江戸時代から現在
建物は唐津城などに移されたと伝わる。島原の乱後、石垣が崩された跡が残る。1955年に特別史跡となり、1993年に県立名護屋城博物館が開館した。
名護屋城を読むときの三つの視点
- 戦いのための城ではなく、出撃のための城。名護屋城は攻められたことがない。朝鮮半島への補給と指揮の拠点として築かれた。
- 全国の大名が一か所に集まった。陣跡からは各大名の普請の技術や生活の跡が出土し、戦国末期の大名の姿を比較できる。
- 豊臣政権の力と限界を示す。数か月で大城を築く動員力と、7年の出兵で政権の基盤を弱めた負担の両方がここにある。
名護屋城は、朝鮮出兵という日本史のなかでも評価が難しい出来事の現場です。城跡と博物館は、日本と朝鮮半島の長い交流史のなかにこの出兵を位置づける展示を行っています。