城ページ / 肥前国・朝鮮出兵の本営

名護屋城なごやじょう

名護屋城なごやじょうは、肥前国(佐賀県唐津市鎮西町)の東松浦半島の先端に、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の本営として築いた城です。1591年に着工し、わずか数か月で大坂城に次ぐ規模の城が完成しました。周囲には全国の大名が130以上の陣屋を構え、一時は20万を超える人が集まったとされます。秀吉自身も1592年からここに滞在して出兵を指揮しました。1598年の秀吉の死で出兵が終わると城は廃され、建物は唐津城などに移されたと伝わります。城跡と23の陣跡が特別史跡で、佐賀県立名護屋城博物館が隣接しています。尾張の名古屋城とは別の城です。

1591年〜1598年 豊臣秀吉 朝鮮出兵の本営 特別史跡

要点

  • 1591年、秀吉が朝鮮出兵のために築いた。明の征服を掲げた秀吉が、朝鮮半島に最も近い肥前の名護屋に本営を置いた。
  • 数か月で完成した大城。九州の大名を中心とする普請で、大坂城に次ぐ規模の城が短期間で築かれた。加藤清正・黒田孝高らが関わったと伝わる。
  • 全国の大名が陣屋を並べた。徳川家康とくがわ いえやす前田利家まえだ としいえ伊達政宗だて まさむねら130以上の大名が周囲に陣を構え、城下は一時的に巨大な町になった。
  • 秀吉はここで出兵を指揮した。1592年から約1年、のちにも滞在し、茶会や能を催しながら前線の報告を受けた。
  • 秀吉の死とともに役目を終えた。1598年の撤兵後に廃城となり、石垣は意図的に崩された跡が残る。尾張の名古屋城とは別。
歴史

名護屋城は、どう使われてきたのか

  1. 011591年、築城開始

    九州平定後、秀吉は明の征服を決め、出兵の本営として名護屋を選んだ。10月ごろ着工し、翌年春には主要部が完成した。

  2. 021592年、文禄の役の開始

    4月、日本軍が釜山に上陸。秀吉は名護屋に入り、出兵を指揮した。全国の大名が名護屋に集まり、陣屋を構えた。

  3. 03名護屋での秀吉

    秀吉は名護屋で茶会や能を催し、黄金の茶室を持ち込んだと伝わる。母・大政所おおまんどころの危篤で一時大坂に戻った。

  4. 041593年、講和交渉と帰坂

    明との講和交渉が始まり、秀吉は大坂へ戻った。名護屋には留守の大名が残った。

  5. 051597年、慶長の役

    講和が決裂し、再び出兵。秀吉は名護屋には来ず、伏見から指揮した。

  6. 061598年、秀吉の死と撤兵

    8月に秀吉が死去し、五大老は撤兵を決めた。名護屋城は役目を終え、廃城となった。

  7. 07江戸時代から現在

    建物は唐津城などに移されたと伝わる。島原の乱後、石垣が崩された跡が残る。1955年に特別史跡となり、1993年に県立名護屋城博物館が開館した。

どう読むか

名護屋城を読むときの三つの視点

  • 戦いのための城ではなく、出撃のための城。名護屋城は攻められたことがない。朝鮮半島への補給と指揮の拠点として築かれた。
  • 全国の大名が一か所に集まった。陣跡からは各大名の普請の技術や生活の跡が出土し、戦国末期の大名の姿を比較できる。
  • 豊臣政権の力と限界を示す。数か月で大城を築く動員力と、7年の出兵で政権の基盤を弱めた負担の両方がここにある。

名護屋城は、朝鮮出兵という日本史のなかでも評価が難しい出来事の現場です。城跡と博物館は、日本と朝鮮半島の長い交流史のなかにこの出兵を位置づける展示を行っています。

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参考にした資料