要点
名古屋城は、どう使われてきたのか
- 01室町〜戦国、那古野城の時代
今川氏の一族が那古野に城を築き、1530年代に織田信秀が奪った。信秀はここで信長を育てたとされ、信長が生まれた城とする説がある。
- 02信長が清洲へ移り、廃城に
1555年に信長が清洲城を本拠にすると那古野城の役割は失われ、やがて廃城となった。
- 031609年、家康が築城を決める
関ヶ原後、尾張の本拠は清洲城だったが、低地で水害が多く手狭だった。家康は那古野の台地に新城を築き、清洲から城下ごと移すことを決めた。
- 041610年、天下普請で築城
加藤清正・福島正則ら西国・北陸の20家の大名が石垣工事を分担した。天守台は清正が担当したと伝わる。天守は1612年に完成した。
- 05清洲越し
清洲の城下町の武家・町人・寺社がそっくり名古屋へ移された。これを「清洲越し」と呼ぶ。清洲城は廃城となった。
- 06尾張徳川家の時代
1616年ごろ義直が入城し、尾張藩の政庁として幕末まで続いた。本丸御殿は将軍上洛時の宿所として使われ、藩主は二の丸に住んだ。
- 07明治以降、保存と焼失、再建
明治に陸軍の管理を経て、宮内省の離宮として保存された。1930年に名古屋市へ下賜され、天守・本丸御殿は国宝となったが1945年の空襲で焼失。天守は1959年に再建、本丸御殿は2018年に復元された。
名古屋城を読むときの三つの視点
- 戦国の城ではなく、戦国の終わりの城。築城は大坂の陣の直前で、豊臣家への備えと徳川の威信を示す意味があった。
- 天下普請は大名統制の手段。西国大名に費用と人員を負担させることで、徳川は自らの資金を使わず、大名の力を削いだ。
- 清洲から名古屋へ、町ごと動いた。城だけでなく城下町全体を移した「清洲越し」は、近世の都市づくりの大規模な例。
名古屋城は戦国の合戦の舞台にはなっていません。しかし那古野城として信長の時代に始まり、家康が戦国の終わりに築いた城として、尾張の戦国史の入口と出口にあたります。