人物ページ / 1600年〜1650年・尾張徳川家の初代藩主

徳川義直とくがわ よしなお

徳川義直とは?

徳川義直は徳川家康の九男で、今の愛知県名古屋市にあたる尾張を治める尾張徳川家の初代藩主です。

1600年、関ヶ原の戦いがあった年に徳川家康の九男として生まれます。同じ年に清須城主となった兄・松平忠吉が1607年に病没し、義直が跡を継ぎました。
1609年、家康が清須から名古屋へ拠点を移すことと築城を命じます。1610年、義直の居城として名古屋城の築城が始まり、町ごと移る清須越も始まりました。
1614年に大坂冬の陣、1615年に大坂夏の陣へ出陣します。1616年、17歳で名古屋に入りました。
藩領は尾張全域をはじめ美濃・三河など6か国にわたり、合わせて約62万石でした。幕府から配属された付家老を含め、100以上の役職が置かれます。
駿府で家康のもとに育ち、名古屋でも学者を招いて書物を集めました。1646年、自ら『神祇宝典故実考証』を著しています。
1650年、51歳で没します。遺命により、今の愛知県瀬戸市定光寺町にある定光寺の北東に、儒教式の配置を取る廟が築かれました。

誕生と相続——関ヶ原の年に生まれ、兄の死のあとに清須城主となった

徳川義直は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いがあった年に、徳川家康の九男として生まれた。同じ年、家康は四男の松平忠吉を清須城主に据えている。慶長12年(1607)、忠吉が病没したのを受けて、義直が清須城主となった。この移封(領地を移されること)で、義直は初代の尾張藩主の座に就いた。

1600〜1607年 兄が務めた、7年間の尾張

関ヶ原の戦いに勝った家康は、四男の松平忠吉と九男の義直を清須城へ入れている。慶長12年(1607)に忠吉が病没するまでの7年間、尾張を預かったのは忠吉だった。

名古屋城の築城——清須から名古屋へ、城も町もまるごと移した

慶長14年(1609)、家康は清須から名古屋への遷府(政治の中心を移すこと)を決め、あわせて名古屋城の築城を命じた。翌慶長15年(1610)、義直の居城として名古屋城の築城が始まる。同じ年に堀川が完成し、本丸・二之丸・西之丸・御深井丸の石垣ができ、清須から名古屋へ町ごと移る清須越(城下町ごとの引っ越し)も始まった。

なぜ名古屋か 上方と江戸の、中間点だった

関ヶ原の戦いの直後はまだ政情が不安定で、家康は上方と江戸を結ぶ東海道の防衛の要として、その中間点に位置する尾張に徳川の砦を置く必要があった。名古屋城の築城は、その判断の延長にある工事だった。

1612〜1615年 天守、町、御殿の順に整った

慶長17年(1612)、本丸御殿の作事が始まり、天守が竣工した。翌慶長18年(1613)には城下町が整い始める。慶長20年(1615)に本丸御殿が完成した。城の中枢と町の区画は、着工から5年ほどで形をとった。

大坂の陣と名古屋入り——二度の出陣を経て、17歳で名古屋に入った

名古屋城の工事が進むさなかに、義直は二度、大坂へ出陣している。慶長19年(1614)の大坂冬の陣と、翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣である。夏の陣があった年に、名古屋城の本丸御殿が完成し、義直は春姫と結婚した。元和2年(1616)、義直は17歳で名古屋に入る。

1617〜1620年 二之丸御殿へ移った

元和3年(1617)、二之丸御殿が完成した。慶長15年(1610)の着工から数えると、御殿の完成までは7年かかった。元和6年(1620)、義直は二之丸御殿へ移り、居所が整うまでは10年かかった。

尾張藩の形——6か国にまたがる領地、100を超える役職、そして街道

尾張藩の藩領は、石高のある尾張・美濃・三河・近江・摂津と、無高の木曽(信濃)をあわせた6か国にわたった。石高は、尾張が47万石余、美濃が13万石余、三河が5千石、近江が5千石余、摂津が2百石で、合わせて約62万石におよぶ。木曽は石高こそないが藩領で、その木材資源が藩の収入となった。尾張には約千の村があり、庄屋などの村役人の責任で年貢が藩へ納められた。

付家老 幕府から配属された家老がいた

尾張藩には、成瀬・竹腰のように幕府から配属された付家老(幕府が付けた家老)がいた。万石以上の年寄や城代も置かれ、軍事を受け持つ番方と行政を受け持つ役方をあわせて、100以上の役職が藩政にたずさわった。

街道 東海道が通り、宿がふたつ置かれた

尾張の領内には、幕府の支配下にある街道として東海道が通り、鳴海と宮(熱田)に宿がおかれた。宮から伊勢の桑名へは海路で、「七里の渡し」と呼ばれた。ほかに美濃路や佐屋街道も通っている。

学問——学者を招き、書物を集め、自ら考証の書を著した

義直は元和2年(1616)に名古屋へ入るまで、駿府の家康のもとで過ごしている。家康を中心とする高い文化的環境の中で、勉強好きな若者に育った。名古屋に移ってからも、堀杏庵などすぐれた学者を招くとともに、書物の収集に努めた。林羅山には駿府時代から師事している。

神祇宝典故実考証 神社の祭神を、古い国史で確かめた

義直の著書『神祇宝典故実考証じんぎほうてんこじつこうしょう』は、日本各地の由緒ある神社の祭神を、六国史(朝廷が編んだ6つの国史)ほかの文献によって考証し、付図として神器類の彩色図を添えた書物である。正保3年(1646)の成立で、この本の自序は林羅山が代作している。

没後の廟——遺命で築かれ、儒教式の配置を取った

慶安3年(1650)、義直は没した。享年51歳である。義直の遺命により、定光寺(今の愛知県瀬戸市定光寺町)の北東に隣接して廟びょう(墓とその建物)が築かれた。死亡した翌年の慶安4年(1651)に墳墓と石標が造立され、その翌年の承応元年(1652)に焼香殿・宝蔵・門・築地塀などが完成している。

儒教式 中国からの渡来人が設計した

廟は、中国の渡来人・陳元贇ちんげんぴんの設計により、日本でも数少ない儒教式の配置を取っている。同じころの諸大名の廟建築の多くは、仏寺式や神道式である。焼香殿の敷瓦は、瀬戸市域で焼かれたものである。

義直が残したもの——国替えを受けなかった尾張徳川家と、城下町名古屋

義直が尾張に入ったあと、尾張徳川家は江戸時代を通じて同じ地域を治めた。

国替え 領地の変更を受けなかった家

譜代大名の多くは、幕府の都合で領地を移される国替えを受けた。尾張徳川家はこれを受けず、江戸時代を通じてこの地方を支配し続けた。義直が慶長12年(1607)に入った尾張が、そのまま幕末までの領地であり続けている。

城下町名古屋 尾張の政治・経済・文化の中心

清須から移された城下町名古屋は、尾張の政治・経済・文化の中心として栄えた。城の周囲に武家屋敷、碁盤割の部分に町家、防衛上の要所に寺社を配する計画的な町づくりが行われている。

徳川義直の疑問に答える

義直は、大坂の陣で何をした?

確かめられるのは、慶長19年(1614)の大坂冬の陣と慶長20年(1615)の大坂夏の陣に「出陣した」というところまでである。どこに配置され、どのように戦ったかを記した記述はない。合戦そのものの経過は、大坂冬の陣・大坂夏の陣のページで追える。

名古屋城は、どれくらいの期間で築かれた?

資料によって書き方が分かれる。名古屋城の年表は、着工から天守・本丸御殿・二之丸御殿の完成まで、段階を追って年を記す。名古屋市博物館の解説は、慶長15年(1610)から約4年をかけて名古屋城を築いた、とまとめている。どの建物までを「完成」と数えるかで、年数の示し方が変わる。

義直は御三家の筆頭だった?

公的資料は、尾張の義直の家を「御三家の一つ」と書いている。「筆頭」や序列にあたる言い方は、名古屋城・名古屋市博物館・国立公文書館のいずれの解説にも見当たらなかった。三つの家の関係については、御三家のページを参照してほしい。

義直の墓は、今どうなっている?

愛知県瀬戸市定光寺町に残っている。廟のうち「源敬公墓(石標)」は、昭和12年(1937)8月25日に国の重要文化財に指定された。「源敬公」は義直をさす呼び名で、瀬戸市の資料では義直を「尾張藩祖」と記している。

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参考にした資料