人物ページ / 家康の四男・忍城と清洲城の城主

松平忠吉まつだいら ただよし

松平忠吉とは?

徳川家康とくがわ いえやすの四男で、二代将軍秀忠の同じ母の弟です。幼くして東条松平家を継ぎ、武蔵の忍城主として十万石を領したのち、関ヶ原の戦いで舅の井伊直政とともに先陣に進んで傷を負い、戦後は尾張一国を与えられて清洲城主となりました。

しかし慶長12(1607)年、28歳で亡くなります。子が育たなかったため家は絶え、尾張は弟の義直が継いで、のちに御三家の一つとなる尾張徳川家につながりました。

天正8(1580)年ごろ生まれます。天正9(1581)年に東条松平家の当主が跡継ぎのないまま亡くなり、その遺領が忠吉に与えられます。
武蔵の忍城主となり、十万石を領します。入城の年は資料によって1590年とも1592年とも書かれます。
慶長5(1600)年9月15日、井伊直政とともに福島正則の陣より先へ進み、島津勢との戦いで手に傷を負います。
戦後、尾張一国を与えられて清洲城に移ります。
慶長12(1607)年3月5日に亡くなり、家臣が殉死します。尾張は弟の義直に与えられました。

東条松平家を継ぐ——福松丸から忠康へ

忠吉の母は、秀忠と同じ西郷局である。のちに幕府が編んだ歴史書『徳川実紀』は、天正7(1579)年に秀忠が生まれ、その翌年に同じ母から忠吉が生まれたと書く。幼い名は福松丸といった。三河の松平氏の一族である東条松平家の甚太郎家忠が天正9(1581)年11月1日に跡継ぎのないまま亡くなると、その遺領は忠吉に与えられた。忠吉ははじめ忠康と名のり、のちに忠吉と改めている。

3歳の城入り 後見役とともに駿河の三枚橋城へ

天正10(1582)年に武田氏が滅ぶと、武田方の駿河の拠点だった三枚橋城(今の静岡県沼津市)は徳川氏に明け渡された。沼津市の文化財の解説は、ここに家康の子の松平忠吉と、後見役の松井忠次(松平康親)が入城したと書く。

名前の書き違い 先代は「家忠」か「宗忠」か

東条松平家の先代の名を、『寛政重修諸家譜』は家忠と書き、『徳川実紀』は「東條甚太郎宗忠」と書く。どちらも通称は甚太郎で、同じ人物を指している。

忍城の十万石——井伊直政の娘を妻に迎える

家康が関東へ移ったのち、忠吉は武蔵の忍城(今の埼玉県行田市)の城主となり、十万石を領した。『徳川諸家系譜』によれば、文禄元(1592)年10月11日、井伊直政の娘が忍城に嫁いできた。文禄3(1594)年には、利根川の流れの一つだった会の川の締め切りが、忍城主だった忠吉の命により、付家老の小笠原吉次の指揮で行われたと伝わる。

入城の年 1590年か、1592年か

行田市の文化財の解説は、天正18(1590)年に家康が関東に入ると、同じ年に忠吉が十万石で忍城に入ったと書く。一方、『徳川実紀』は文禄元(1592)年2月に忍城を与えられたとし、レファレンス協同データベースが引く中村孝也『家康の族葉』も、文禄元年2月、12歳のときに忍城十万石の領主となったとする。『寛政重修諸家譜』は、天正18年に忍城を与えられて1万石を領したのは深溝松平家の家忠で、家忠は文禄元年2月19日に下総へ移されたと書いている。

早世した男の子 忍の正覚寺に葬られた梅貞童子

『徳川諸家系譜』には、慶長2(1597)年1月10日に生まれ、26日に亡くなった男の子が載っている。法名は梅貞大童子で、忍の持田の正覚寺に葬られた。一方、『徳川実紀』はこの子には触れず、妻との間に子がなかったと書く。

関ヶ原の先陣——福島隊の脇を抜けて

慶長5(1600)年9月15日、関ヶ原で東軍の先鋒を任されていたのは福島正則だった。岐阜関ケ原古戦場記念館の解説は、徳川家が先陣を切ることが重要だと考えた井伊直政が、忠吉とともに抜け駆けして宇喜多隊に発砲し、合戦の火ぶたが切られたと説明する。『寛政重修諸家譜』の井伊家の記録では、直政が忠吉を伴って福島の備えを越えて進もうとしたところ、福島の家臣の可児才蔵に咎められ、直政は偽って「斥候(物見)だ」と答えて先へ進んだという。

忠吉の傷 島津の郎党と組み合う

『徳川実紀』によれば、忠吉は島津勢との戦いで、島津の郎党の松井三郎兵衛が打ちかかる太刀を左の袖で受け、組み合って右手の指を傷つけた。『寛政重修諸家譜』は、戦いののち忠吉が傷を包んで家康の前に出たこと、直政も鉄砲で二か所に傷を負ったことを記す。

直政の弁明 「武功を争ったのではない」

『寛政重修諸家譜』によれば、直政は諸将に向かい、先鋒より先に戦いを始めたことを恨む者もいるだろうが、その場の成り行きでやむを得なかったことで、武功を争ったのではないから無礼を咎めないでほしいと述べたという。

尾張清洲の城主——忍から移った家臣団

『徳川実紀』によれば、関ヶ原の戦いの後、慶長5(1600)年10月7日に忠吉は尾張国を与えられ、清洲城に移った。翌慶長6(1601)年3月28日に従四位下侍従、慶長10(1605)年4月16日に従三位・左近衛権中将となり、慶長11(1606)年には薩摩守に改めている。名古屋市博物館の解説は、忠吉が入った尾張は事実上徳川政権の直轄領となり、織田家以来の家臣に加えて、家康直属の家臣や忠吉の旧領から移ってきた家臣が入って、清須の城下がさらに広がったと説明する。

清洲の家臣団 分限帳と犬山城の付家老

忠吉が清洲城主だった頃の家臣の名簿『清洲分限帳』が、西尾市岩瀬文庫に伝わる。その奥書は、知多郡の加増の前の知行高を42万石、加増後を48万石と書き、家臣のなかに忍から付き従ってきた者がいたと記す。忠吉を支える筆頭家老の小笠原吉次は、犬山城主となった。

入府の年 1600年か、1601年か

尾張に入った年も、資料によって書き方が違う。『徳川実紀』や名古屋市中区の解説は慶長5(1600)年とし、愛知県公文書館の『愛知県史』の紹介は、慶長6(1601)年の松平忠吉の尾張入府から尾張藩の史料を収めたと書いている。

28歳の死——殉死と、義直への引き継ぎ

『徳川実紀』によれば、慶長12(1607)年2月に江戸に参った忠吉は、13日に容体が急に悪くなった。それより前から、大久保忠常の屋敷を宿所としていた。病が重くなったため、尾張へ帰って治療するよう江戸を出たが、3月5日に芝浦で亡くなった。28歳だった。同書は、翌6日に家臣の石川吉信・稲垣忠政・中川清九郎が殉死したと記し、殉死を5日とする説や48人とする説があることも書き添える。17日には、忠吉にかわいがられた小笠原吉次の子の忠重が、増上寺に来て殉死した。20日、忠吉は江戸の増上寺に葬られて性高院と贈られ、「殉死の五人」も手厚く葬られたという。ただし同書には、浦賀にいた家臣の平岩親直や、忠重の寵童の佐々喜蔵も後を追ったとあり、名の挙がる人数とは合わない。

弟の義直へ 8歳の領主と、清洲の平岩親吉

同じ年の閏4月26日、8歳の義直が甲斐から移され、忠吉の領地だった尾張一国に、美濃の一部や信濃の木曽山などを加えて61万9500石を与えられた。義直が幼い間は、犬山城を与えられた平岩親吉が清洲城にいて国政を取りしきるよう命じられている。のちに清須城は水害の危険が高いとして、家康は名古屋城を新たに築かせた。

跡継ぎ選びの話 直政は忠吉の武功をたたえたと伝わる

『徳川実紀』は、家康が重臣たちに跡継ぎを諮ったとき、井伊直政がまず忠吉の武功をたたえ、大久保忠隣おおくぼ ただちかひとりが秀忠の謙譲の徳をたたえて、ついに秀忠に定まったという話を載せている。名古屋市千種区の性高院には、名古屋市の文化財に指定された「絹本著色松平忠吉像」が伝わる。

松平忠吉の疑問に答える

関ヶ原の戦いは、忠吉の発砲で始まったの?

岐阜関ケ原古戦場記念館は、井伊直政と忠吉が抜け駆けして宇喜多隊に発砲し、合戦の火ぶたが切られたと説明する。江戸時代にまとめられた『寛政重修諸家譜』や『徳川実紀』は、二人が福島正則の備えを越えて先へ進んだことを書くが、宇喜多隊への発砲には触れていない。

忠吉の尾張は何万石だった?

今回あたった公的な資料では、はっきりした数字は確かめられなかった。家臣の名簿『清洲分限帳』の奥書は知多郡の加増の前を42万石、後を48万石と書く。弟の義直に与えられた61万9500石は、尾張一国に美濃の一部や木曽山などを加えた数である。

忠吉に子はいなかったの?

『徳川諸家系譜』によれば、男の子が一人生まれたが、生まれて半月ほどで亡くなった。そのため成長した跡継ぎはなく、忠吉の家は絶えた。妻の井伊直政の娘は、忠吉の死後、家康の命で弟の井伊直勝の領地の安中に移り、のちに彦根に住んだ。

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参考にした資料