平岩親吉は何を担ったか
- 家康の人質時代から近く仕えたとされる古参。
- 武田氏滅亡後、甲斐の支配・調整を担った。
- 関東入封後は上野厩橋を領した。
- 晩年は家康の九男・義直を支え、尾張犬山城主となった。
生涯を通して見る
親吉は家康と年齢が近く、若い頃から行動をともにした近臣とされます。前線での武功だけでなく、家康が新たに得た地域を預かり、家臣・旧領主・村をまとめる仕事に長く関わりました。
武田氏滅亡後の甲斐は、織田・徳川・北条の争いと旧武田家臣の処遇が重なる難しい地域でした。親吉は甲斐の支配を担い、家康が関東へ移ると上野厩橋へ移ります。領地替えのたびに、徳川の命令を地域へ通す役割を負いました。
晩年には家康の九男・義直の傅役となり、尾張で犬山城を預かります。親吉に実子の後継がいなかったとされることも含め、個人の大名家を大きくするより、徳川一門の幼い当主と領国を守ることに重心を置いた人物でした。
年表で追う
少年期
家康の近臣
人質時代から家康に仕えたと伝わる。
1582年以後
甲斐支配
武田氏滅亡後の地域と旧臣の調整に関わる。
1590年
上野厩橋へ
関東入封で徳川領の北西部を預かる。
1600年代
義直の傅役
家康の子と尾張徳川家の立ち上げを支える。
1607〜11年
犬山城主
尾張の要城を預かり、1611年に没する。
この人物を読む四つの視点
家康との近さ
幼少期からの信頼が、難しい領地と子の後見を任せる基盤になった。
甲斐の統治
旧武田領を戦後の徳川支配へつなぐ調整役だった。
傅役
主君の子を育て、家臣団と領国を次世代へ接続する仕事。
犬山城
尾張北端と木曽川を押さえる城を、一門領の支えとして預かった。
読み違えないために
家康の人質時代からの逸話や義直との関係には後世の美談も含まれます。親吉の役割は、確認できる領地移動、甲斐・上野・尾張での支配、傅役という立場から整理します。
参考にした資料
自治体・博物館等の公開資料を参照し、本文は初学者向けに独自に整理しています。
- 犬山市「犬山城を含む歴史的風致」(関ヶ原の戦いの後、松平忠吉を支える筆頭家老の小笠原吉次が犬山城主となり、忠吉の没後に尾張藩主徳川義直のもり役・平岩親吉が城主となったこと、城主一覧で慶長12〜17年が平岩親吉であること、親吉の没後しばらく城主不在となり、元和3年〔1617〕に成瀬正成が拝領したこと)
- 群馬県立文書館「厩橋藩主平岩親吉より前橋八幡宮あて社領寄進状」用語・解説(天正18年〔1590〕8月に関東へ入部した家康が、上野国を江戸城の北辺防備の要地として重視し、甲府城代であった平岩親吉を厩橋城に3万3000石で封じたこと、親吉が三河以来の側近であったこと、厩橋での治政が天正18年から慶長6年〔1601〕までであったこと)
- 名古屋市(名古屋城総合事務所)「名古屋城の歴史 近世」(慶長12年〔1607〕に家康の四男・松平忠吉が没し、九男・義直が遺領を継いで藩主となったこと、義直はこの時まだ8歳で、政務はしばらく付家老の平岩親吉が担ったこと)
- 国立国会図書館典拠データ「平岩, 親吉, 1542-1611」(生年1542年・没年1611年、通称が七之助であること、経歴を大名とすること)