犬山城を三つの役割で読む
木曽川に面する城
城の背後を木曽川の断崖が守る立地は、尾張北部の地形を生かした防御の強さにつながります。川の向こうの美濃を意識する場所でもあります。
信清の拠点
信長の従兄弟・織田信清は犬山城を拠点に、木曽川流域で独自の勢力を持ちました。岩倉城攻略後、信長と対立する中心になります。
尾張北部の軍事拠点
1565年に信長が攻略した後も、犬山城は尾張北部の重要な城であり続けます。1584年の小牧・長久手の戦いでも周辺は大きな舞台になりました。
なぜ木曽川沿いの城が重要なのか
犬山城は尾張の北端近く、木曽川に沿った高台にあります。川が自然の防御線になる一方で、対岸・上流の美濃方面を見渡す位置でもあります。尾張から美濃へ進む信長にとって、犬山の独立した勢力をそのままにすることは、背後と側面に不安を残すことにつながりました。
城だけを見れば尾張の一城ですが、川・国境・街道を重ねると、犬山城は尾張北部の主導権を示す場所になります。
城主の交代で、何が変わったか
信長の叔父にあたる信康が、現在地の犬山城を築いたと伝えられます。
信長と信清は岩倉攻めでは同じ側に立ちました。しかし、岩倉城が落ちた後に関係は変化します。
信清は城を失い、のちに池田恒興が城主になります。信長は尾張北部の主導権をさらに固めます。
犬山城とその周辺は、秀吉と家康・信雄の対立を考える要地になります。
信清との対立は、犬山城をどう変えたか
犬山城は、信清の個人の居城というだけではありません。岩倉城が落ちた後も、尾張北部に独自の織田勢力が残ることを意味していました。
1565年の攻略によって、信長は犬山城を自らの勢力圏に組み込みます。これにより、尾張統一は岩倉城の落城だけでは終わらず、犬山まで含めて北部の主導権を固める段階へ進んだことが分かります。
現在の天守を見るときの注意
犬山城の国宝天守は、戦国期の犬山城をそのまま残した一枚の写真のような建物ではありません。城は戦国から近世にかけて城主や構造が変わり、現在残る建物も後世の改修・整備を経ています。
このページでは、現在の天守の見た目と、信清・信長の時代に犬山が果たした軍事上の役割を分けて扱います。城を「当時の建物」だけでなく、同じ場所が時代ごとに何を担ったかとして読むのが大切です。
ここだけ覚える
- 犬山城は木曽川に面する尾張北部の要地で、美濃を意識する城だった。
- 織田信清の拠点だったが、1565年に信長が攻略し、尾張北部の主導権を固めた。
- 犬山城と周辺は、1584年の小牧・長久手の戦いでも重要な舞台になる。
参考にした資料
- 犬山市「犬山市歴史的風致維持向上計画」(犬山城が北に木曽川という天然の防備を持ち、天守裏が断崖の「後堅固の城」であること、天守の創建年代には断定できる史料がなく諸説あること、信長の伯父・織田信康が木ノ下から城を移したとされること、永禄8年〔1565〕に信長が侵攻して信清が敗走し、その後池田恒興が城主となったこと、小牧・長久手の戦いで犬山城が攻められたこと)
- 一宮市地図情報サイト「138マップ」「浮野古戦場跡」(永禄元年〔1558〕、岩倉攻略をはかる清洲城主・織田信長と岩倉城主・織田信賢が浮野で衝突し、犬山城主・織田信清が信長方に加わったこと、戦死者を弔った首塚跡に「浮野合戦場跡」の碑が建つこと)
- 犬山市「犬山城の見学案内」(天文6年〔1537〕に織田信長の叔父・織田信康が築城したと伝えられること、元和3年〔1617〕に成瀬正成が徳川秀忠から拝領して以来成瀬氏が城主を務めたこと、現存天守が昭和10年に国宝に指定されたこと)
戦国期の犬山城については、城の立地、信清と信長の対立、1565年の攻略を中心に整理しました。天守の成立・改修には議論があるため、本文では現在の建物と戦国期の城の役割を同一視しない表現にしています。