協力者が、なぜ敵になるのか
犬山城は、なぜ重要だったのか
犬山城は木曽川に面する尾張北端の要地です。北には美濃があり、川沿いの地域と城を押さえることは、尾張と美濃の間を動くうえで大きな意味を持ちました。
信長が美濃へ進む視点から見ると、犬山は単に「尾張に残る城」ではありません。背後を固めながら北へ向かうための拠点であり、信清との対立は尾張内部の争いと美濃攻略の準備が重なる問題でした。
岩倉城攻略の後に残った、もう一つの織田家
1559年に岩倉城が落ちても、信長がすぐに尾張のすべてを自由に動かせたわけではありません。犬山城の信清は、信長の従兄弟にあたり、木曽川流域を基盤に独自の力を持っていました。
共通の敵がいなくなれば、協力した者同士の関係も変わります。ここを押さえると、信長の尾張統一が「敵を一度倒したら終わり」ではなく、織田一族の力関係を組み替える過程だったことが分かります。
1565年の犬山城攻略が変えたこと
| 城主の交代 | 信清は信長に攻められて犬山城を失い、のちに信長の家臣・池田恒興が城主になります。 |
|---|---|
| 尾張北部の安定 | 犬山城の対抗勢力が後退し、信長は尾張北部の主導権をより確かなものにします。 |
| 美濃への足場 | 犬山・木曽川の地域を押さえることで、美濃との境目を意識した行動が取りやすくなります。 |
「尾張統一」は、一度で終わらない
岩倉側を倒す
1558年の浮野での交戦と1559年の岩倉城落城によって、尾張上四郡(尾張北部の四つの郡)の対抗拠点を失わせます。
犬山側とも対立する
協力者だった信清との関係も、戦後に崩れます。尾張には複数の織田一族があり、利害は同じではありません。
美濃へ向かう
1565年の犬山城攻略を経て、信長は尾張の外へ力を向けます。次の大きな転換点が美濃攻略です。
ここだけ覚える
- 信清は1558年の浮野の戦いでは信長方に加わったが、岩倉城落城の後に対立へ転じた。
- 犬山城は木曽川に面する尾張北部の重要拠点で、美濃へ向かう際にも意味を持った。
- 1565年の犬山城攻略で、信長は尾張北部の主導権をさらに固めた。
参考にした資料
- 一宮市地図情報サイト「138マップ」「浮野古戦場跡」(永禄元年〔1558〕、岩倉攻略をはかる清洲城主・織田信長と岩倉城主・織田信賢が浮野で衝突し、犬山城主・織田信清が信長方に加わったこと、戦死者を弔った首塚跡に「浮野合戦場跡」の碑が建つこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之上」(太田牛一著、1881年刊)(首巻。22コマに、信長が小牧山へ移って要害を築くと、20町ほど隔てた於久地〔小口〕の城が明け渡されて城兵が犬山へ籠もったこと、犬山の家老で黒田城主の和田新介と於久地城主の中嶋豊後守が丹羽五郎左衛門を通じて信長方に付き、犬山が取り籠められたこと)
- 犬山市「犬山市歴史的風致維持向上計画」(信長の伯父にあたる織田信康が犬山城を築き、その子・信清が城主だったこと、永禄8年〔1565〕に美濃攻略の拠点として信長が侵攻し、信清が敗走したこと、その後に池田恒興が城主となったこと)
- 観光庁「戦国合戦の舞台」
信長と信清の対立は、浮野での協力、戦後の対立、犬山城落城という流れで、自治体の公開資料と『信長公記』をもとに整理しました。対立の直接の原因は、公的な資料では確かめられないため断定していません。戦闘の細部には資料間で記述差があるため、本文では尾張北部の主導権と美濃攻略への意味を中心に扱っています。