岩倉は、尾張北部の中心だった
尾張は、清洲側と岩倉側の織田家がそれぞれ強い影響力を持つ地域でした。岩倉織田氏は、上四郡の守護代家として岩倉城を拠点にし、信賢はその後継者として北部を率います。
織田信賢
岩倉城主。尾張北部の主導権を守ろうとした、信長にとって最大の同族勢力です。
織田信長
清洲を基盤に尾張南部を固め、次に岩倉側へ軍を向けます。
織田信清
犬山城主。岩倉攻略では信長に協力し、信賢を挟む形で北から圧力をかけました。
浮野から岩倉城落城へ
1557年ごろ
信行の動きと岩倉側
信長と弟・信行の対立が続くなか、岩倉側も信長と距離を置きます。
1558年
浮野の戦い
信長は浮野で岩倉方と戦い、犬山の信清も信長側に加わりました。
1559年
岩倉城が落ちる
信長は岩倉城を攻略し、岩倉織田氏は尾張北部の主導権を失います。
岩倉城落城で尾張のすべてが一気に信長のものになったわけではありません。 犬山の信清との対立が残ります。それでも北部の大きな守護代勢力が消えたことで、信長は尾張の中心勢力になりました。
ここだけ覚える
- 織田信賢は、岩倉城を本拠とした岩倉織田氏の当主。
- 1558年の浮野の戦いを経て、1559年に岩倉城は信長に攻略された。
- 信賢の敗北は、信長が尾張北部へ主導権を広げる転機だった。
織田信賢から、どこへ進む?
参考にした資料
信賢と岩倉織田氏の家系・行動の細部には資料による表現差があります。本ページでは、信長との対立と岩倉城落城までの流れを中心に整理しました。