織田信賢とは?
織田伊勢守家、最後の岩倉城主。清洲城主の織田信長と対立し、1558年の浮野の戦いに敗れて翌年に岩倉城を攻め落とされ、尾張を南北に分けていた分割統治を終わらせた人物。
尾張が二つに割れた——岩倉が北、清洲が南
尾張では守護代(守護に代わって国の実務を仕切る役)として織田氏が権力を握っていたが、応仁の乱が始まると東軍方と西軍方に分かれて争い、その後も織田氏の分裂は続いた。文明10年(1478年)、織田敏広と織田敏定のあいだで激しい戦いが繰り広げられた。和議によって、敏広が岩倉城で尾張北部を、敏定が清洲城で尾張南部を治める分割統治の時代に入る。和議が成立した年を1479年(文明11年)と記す資料もあり、資料によって書き方が分かれる。
上と下 尾張は四郡ずつ、二人の織田氏が分けて持った
尾張は上四郡と下四郡に分けて治められ、北の四郡を岩倉が、南の四郡を清洲が受け持った。守護代の家は二つに割れたまま、争いが和議で収まったあとも、二つの中心は並び立ち続けた。
伊勢守という呼び名 役職の名が、そのまま家の呼び名になった
岩倉に入った敏広は伊勢守(役職の名を家の呼び名にしたもの)を名乗り、清洲の敏定は大和守を名乗った。岩倉の側は、以後織田伊勢守家と呼ばれる。信賢の父も、資料には「織田伊勢守信安」と記される。
岩倉城と伊勢守家——八十年、尾張上四郡を預かった
岩倉城が築かれた年代は明らかでない。敏広の時代に築かれたと伝わり、その後は寛広、敏信、信安、信賢の順に城主を務めたとされる。それぞれが何年から何年まで城主だったかは分かっていない。岩倉城が伊勢守家の本城として尾張上四郡を治める拠点だった期間は、およそ80年である。
城の構え 東西およそ九十メートル、南北およそ百七十メートルの二重堀
古文書によると、城の構えは東西約90メートル、南北約170メートルで、堀を二重にめぐらせていた。内側には広大な館と、望楼(遠くを見張るための高い建物)があったと伝わる。岩倉城は五条川に近く、城下町には、行き止まりに見せて敵の足を止める鍵道が通されていた。
信安と信賢 父子で、同じ相手と向き合った
信安と信賢は父子である。清洲城主の信長と反目したのは、この父子の代のことだった。伊勢守家の歴代の城主のうち、名前がよく知られているのは父の信安のほうで、岩倉に残る史跡や行事も信安に結びつくものが多い。信賢の名は、多くの場合その信安と並べて「信安・信賢」と記される。
清洲に信長が入る——1555年、南の城主が代わった
天文24年(1555年)、織田信秀の子・織田信長が清洲城主になった。信秀は清洲方の織田氏に仕える奉行の一人で、実力を蓄え、津島から熱田へ進出した人物である。このころ岩倉城の城主だったのが信安・信賢で、清洲に入った信長と反目しあった。尾張を南北に分ける形が始まってから、すでに七十年余りがたっていた。
家の出どころ 同じ織田で、立っている場所が違った
岩倉の伊勢守家は、尾張の守護代を務めた家そのものである。いっぽう信長の家は、清洲方の織田氏に仕える奉行の家から出ている。同じ織田を名乗りながら、家が立っている場所は、守護代の家とその家来筋という違いがある。
清洲という都市 城下に六、七万人が住んでいた
信長が入った清洲城は応仁の乱のころに築かれ、しだいに尾張支配の中心になった城である。城下の人口はおよそ6万から7万人と推定され、当時としては日本有数の都市だった。津島と熱田を押さえた信秀の家が、その清洲に城主として入る。
浮野と岩倉城落城——1558年から1559年へ
永禄元年(1558年)、岩倉城主の信安・信賢と、清洲城主の信長は浮野で戦った。翌永禄2年(1559年)の春、岩倉城は信長に攻められて落城する。信安・信賢の代に伊勢守家は信長に攻め滅ぼされ、尾張の上四郡と下四郡を分けて治める時代に終止符が打たれた。文明の和議から数えて、およそ80年続いた形だった。
1559年春 家老の山内盛豊は、城と運命を共にした
岩倉城の家老(家中を取り仕切る筆頭の家臣)だった山内盛豊は、岩倉方の武将として戦い、落城のときに討たれたと伝わる。当時15歳になっていた子の山内一豊は難を逃れ、岩倉を離れる。
城のその後 城址の碑と地名だけが残った
落城したあとの岩倉城は、今は城址の碑と、下本町城跡という地名に名残をとどめるだけである。跡地は市の指定史跡である。城がどれだけの広さだったかを伝えているのは、東西と南北の間口を記した古文書である。
落城のあと——尾張の統一と、信賢の行方
岩倉城を攻略した信長は、尾張の統一をほぼ完成させ、続いて美濃の攻略に着手した。落城のあと、信賢自身がどこへ行き、どうしたかは、今回の公的資料には記述がない。
信安夫妻の墓 名古屋から平和公園、そして岩倉へ
父・信安と夫人の墓は、信安の子孫の津田新十郎によって、菩提寺(先祖を弔う寺)である名古屋市東区松山町の含笑寺に建てられた。戦後の名古屋の都市計画で平和公園へ移されたあと、無縁墓となっていたところを見つけ出され、信安夫人の秋悦院にゆかりのある岩倉市内の誓願寺へ移されている。毎年3月に追悼会が行われている。
岩倉に残るもの 城主の家と、家老の家の跡
山内一豊誕生地の碑は、父の盛豊が武運長久を祈って社を建てたという由緒により、昭和9年に神明生田神社の境内に建てられた。岩倉では毎年春、山内一豊と織田伊勢守信安の遺徳をしのぶ追悼会が行われている。
織田信賢の疑問に答える
なぜ信長は、岩倉を攻めた?
岩倉城が、尾張の上四郡を治めた織田伊勢守家の本城で、清洲と並ぶもう一方の中心だったからである。応仁の乱のころに始まった分割統治は、信長が清洲城主になった時点ですでに七十年余りが経っており、清洲を握った側から見れば、尾張を一つにまとめるうえで残っていたのが岩倉だった。ただし、信長がいつ、何を決め手に岩倉攻めを決めたかは、今回の公的資料には記述がない。
信賢と信長は、血がつながっている?
信賢と信長が直接どうつながるかは、今回の公的資料には記述がない。ただし、家の系統は別である。岩倉の伊勢守家は尾張の守護代を務めた家そのもので、信長の父・信秀は、清洲方の織田氏に仕える奉行の一人だった。二つの家がどちらも織田氏の分裂から出ていることは資料に記されている。
信賢の父は誰?
織田信安である。信安・信賢父子の代に、伊勢守家は信長に攻め滅ぼされたと記されている。信安の夫人は秋悦院と呼ばれ、夫妻の墓は岩倉市内の誓願寺にある。歴代の岩倉城主のなかで、名前と事績がまとまって伝わるのは、この信安である。
岩倉城が落ちて、尾張はすべて信長のものになった?
岩倉城の攻略で信長が「尾張の統一をほぼ完成させた」と書く資料があり、完全にではなかったことを示す言い方をしている。いっぽう、この落城をもって「尾張の統一を果たした」と書く資料もある。ここは資料によって書き方が分かれる。尾張を南北に分けて治める形がこの落城で終わったことは、どちらの書き方でも共通している。
参考にした資料
- 岩倉市「岩倉の文化財(史跡・山車など)を探そう」(岩倉城跡と織田伊勢守信安夫妻墓が市指定史跡であること・1478年の敏定と敏広の争いと和議・1555年に信長が清洲城主になったこと・1558年の浮野・1559年の落城・城の構えの規模と二重堀・伊勢守家が上四郡を80年支配したこと・信安と信賢が父子であること・信安夫妻墓の来歴と秋悦院・毎年3月の追悼会)
- 岩倉市「織田伊勢守信安や山内一豊がこのまちで生まれ育ったこと、歴史とロマンを感じることができる岩倉市。」(岩倉城の築城が敏広の時代と伝わること・歴代城主に不明な点が多いこと・寛広、敏信、信安、信賢という城主の順・信安夫妻の墓が誓願寺にあること・山内一豊が1567年ごろから信長に仕えたこと・毎年春の追悼会)
- 岩倉市「山内一豊公と岩倉の歴史」(1559年春に岩倉城が落城したこと・家老の山内盛豊が岩倉方として戦い城と運命を共にしたこと・15歳の一豊が岩倉を離れたこと・山内一豊誕生地碑の由緒と昭和9年の建立)
- 愛知県総合教育センター「岩倉城跡」(岩倉城跡の所在地が岩倉市下本町城跡で岩倉駅から徒歩20分であること・和議の成立を1479年とする書き方・伊勢守敏広と大和守敏定の対置・築城年代が明らかでないこと・尾張上半国支配の拠点だった期間が約80年であること・城址碑と地名に名残をとどめること・五条川と城下の鍵道)
- 名古屋市博物館 常設展「尾張の統一と信長・秀吉」(応仁の乱で織田氏が東軍方と西軍方に分かれその後も分裂が続いたこと・清洲が南部、岩倉が北部を分割支配したこと・信秀が清須方織田氏に仕える奉行の一人で津島から熱田へ進出したこと・岩倉城攻略で尾張の統一をほぼ完成させ美濃攻略に着手したこと・清洲城が応仁の乱のころに築かれたこと・清洲城下の人口がおよそ6万から7万人と推定されること)