まず、二年の流れでつかむ
1558年 浮野で交戦
清洲の信長と、尾張上四郡(尾張北部の四つの郡)を基盤とする岩倉織田氏が浮野で戦います。岩倉側をすぐに滅ぼした戦いではなく、両者の対立が軍事衝突へ進んだ局面です。
1559年 岩倉城を攻略
翌年、信長は岩倉城を落とします。岩倉織田氏の拠点が失われ、尾張上四郡も信長の勢力下に入ります。
尾張統一が完成する
清洲・岩倉という二つの中心が並ぶ状態が終わり、信長は尾張をまとめる立場になります。東の今川、西北の美濃へ向き合う前提が整いました。
なぜ岩倉城を攻める必要があったのか
尾張は、信長の家だけでまとまっていた国ではありません。下四郡(尾張南部の四つの郡)では清洲織田氏、上四郡では岩倉織田氏が有力で、弾正忠家の信長はその間で勢力を広げていきました。清洲城を押さえた信長にとって、岩倉城は尾張北部の主導権を決める対抗拠点でした。
美濃へ進むには、背後の尾張が不安定なままでは動きにくくなります。岩倉側との対立は、単なる一城の取り合いではなく、信長が尾張の外へ出る前に越えるべき国内の問題でした。
浮野の戦いは「決着」ではなく、攻略への前段
1558年、信長と岩倉側は浮野で交戦しました。浮野合戦場跡の案内や岩倉市の資料は、この戦いを信長と岩倉城主・織田信賢側との対立として位置付けています。
ここで押さえたいのは、浮野の戦いだけで尾張統一が決まったわけではないことです。翌年の岩倉城攻略までを続けて読むことで、信長が野戦で圧力をかけ、最後は相手の本拠を失わせた流れが見えてきます。
1559年、岩倉城が落ちる
| 相手 | 尾張上四郡を基盤とする岩倉織田氏。信安・信賢の系統が岩倉城を拠点にしていました。 |
|---|---|
| 協力者 | 犬山城主の織田信清は、1558年の浮野の戦いで信長方に加わりました。のちに信長と対立することになります(対立の原因を戦後の所領に求める説明もありますが、公的な資料では確かめられません)。 |
| 結果 | 岩倉城の落城によって、信長は尾張上四郡にも主導権を広げ、尾張統一を完成させます。 |
城が落ちたことで、岩倉織田氏を中心とする対抗勢力は大きく後退します。信長は1555年の清洲入城から1559年の岩倉城落城までを通じて、尾張の政治・軍事の中心を一つにまとめました。
尾張統一の後、信長はどこへ向かうか
東海では今川と向き合う
尾張をまとめた翌1560年、信長は桶狭間で今川義元と戦います。尾張内部の争いを越えたことが、東からの脅威へ集中する条件になりました。
北の美濃へ進む
尾張北部を安定させた信長は、斎藤氏の美濃へ本格的に進出します。1567年の稲葉山城攻略と岐阜への飛躍は、この延長にあります。
犬山の織田信清と対立する
浮野で信長方に加わった信清との関係も、岩倉城が落ちた後に変化します。尾張統一は、すべての織田一族が一枚岩になったという意味ではありません。
ここだけ覚える
- 浮野の戦いと岩倉城攻略は、1558年から1559年に続く一連の尾張内戦。
- 岩倉城の落城で、信長は尾張上四郡にも主導権を広げ、尾張統一を完成させた。
- 尾張を安定させたことで、桶狭間・美濃攻略へ進む条件が整った。
参考にした資料
- 岩倉市「岩倉の文化財」
- あいち歴史観光「岩倉城跡」
- 一宮市地図情報サイト「138マップ」「浮野古戦場跡」(永禄元年〔1558〕、岩倉攻略をはかる清洲城主・織田信長と岩倉城主・織田信賢が浮野で衝突し、犬山城主・織田信清が信長方に加わったこと、戦死者を弔った首塚跡に「浮野合戦場跡」の碑が建つこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之上」(太田牛一著、1881年刊)(首巻。21コマ「浮野合戦之事」に、7月12日に信長が岩倉の後ろの浮野に人数を備えて岩倉勢と戦い、追い崩したこと。同じコマの「岩倉落城之事」に、岩倉を推し詰めて町を放火し、鹿垣を二重三重に結い回して2〜3か月攻めた末に城が明け渡され、岩倉城が破却されたこと)
浮野での交戦と岩倉城落城は、自治体・史跡案内と『信長公記』で確認できる1558年から1559年の流れとして整理しました。戦闘の細部には史料による記述差があるため、本文では尾張統一に果たした意味を中心に扱っています。