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美濃攻略みのこうりゃく、岐阜ぎふへの飛躍

信長は婚姻だけで美濃を手に入れたわけではありません。斎藤道三の死後、義龍・龍興の時代を経て、家臣団の離反を味方につけ、1567年に稲葉山城を攻略します。岐阜を本拠としたことで、信長は京都へ進むための扉を開きました。

斎藤道三 長良川の戦い 美濃三人衆 稲葉山城

美濃攻略、岐阜への飛躍とは?

  • 信長は尾張統一の直後から美濃を狙った。1560年の桶狭間のあと、舅・道三を討った斎藤義龍の美濃へ侵攻を始めた。
  • 義龍の生前は攻めきれなかった。義龍は信長を何度も退け、1561年に急死するまで美濃を保った。
  • 西美濃の国衆を切り崩した。若い龍興のもとで家中が揺らぐと、信長は美濃三人衆らを味方につけた。
  • 1567年、稲葉山城を落とした。三人衆の寝返りで斎藤方は崩れ、信長は美濃を手に入れて本拠を岐阜に移した。
  • 岐阜から「天下」へ。美濃を得た信長は岐阜を拠点に上洛し、天下布武を掲げた。

美濃は、信長が中央へ出るための要地だった

尾張の北にある美濃は、京都へ向かう道筋にあり、稲葉山城の城下・井ノ口いのくちは人と物が集まる場所でもありました。尾張をまとめた信長にとって、美濃を押さえられるかどうかは、隣国との戦いにとどまらず、中央へ進めるかを左右する問題でした。

清洲同盟で三河方面との関係を安定させたことも、信長が美濃へ力を向ける前提の一つでした。美濃を手に入れたことで、その先の京都進出が現実的な選択肢になります。

信長と斎藤氏には、道三の娘・帰蝶(濃姫のうひめ)と信長の婚姻という関係があります。しかし道三は1556年の長良川の戦いで子・義龍に敗れ、その後の美濃は義龍、さらに龍興が継ぎました。信長は義父の遺産を受け継いだのではなく、斎藤氏と長く対立した末に美濃を攻略したのです。

地理 尾張の北にあり、東西交通と京都への進出を考えるうえで重要な位置にありました。
城と城下 金華山の稲葉山城と、ふもとの井ノ口の城下が、美濃の政治と経済の中心でした。
攻略の意味 信長は尾張の大名から、美濃を拠点に畿内きないへ影響を及ぼす存在へ変わります。

美濃攻略から岐阜への流れ

  1. 011548年頃、斎藤道三と織田信秀が和睦する

    信長の父・信秀と道三は対立ののちに和睦し、道三の娘・帰蝶が信長へ嫁いだと伝わります。両家には婚姻のつながりが生まれます。

  2. 021556年、長良川の戦いで道三が敗れる

    道三は子・斎藤義龍との争いに敗れて討たれます。信長は援軍を出しますが、美濃の主導権は義龍のもとへ移りました。

  3. 031561年、義龍の死後に龍興が美濃を継ぐ

    斎藤龍興たつおきが若くして当主となると、有力家臣団との結びつきが揺れ始めます。信長はこの時期から美濃への圧力を強めます。

  4. 04墨俣の砦と「一夜城」伝説を分ける

    墨俣すのまたは国境の重要拠点で、1561年には信長方の砦として記録に現れます。ただし、秀吉が1566年に一晩で築いたという有名な話は後世に形づくられた伝説です。

  5. 05美濃三人衆が信長側へ移る

    稲葉一鉄いなば いってつ・氏家卜全ぼくぜん・安藤守就もりなりらの有力家臣が信長に協力します。城を支える地域の力が動いたことで、斎藤氏の立場は大きく弱まりました。

  6. 061567年、稲葉山城を攻略して岐阜と改める

    信長は龍興を退け、稲葉山城を本拠にします。城下の井ノ口を岐阜と改め、尾張に代わる新しい政治・軍事の拠点を整えました。

  7. 071568年、岐阜を足場に京都へ進出する

    足利義昭よしあきを奉じて上洛し、信長の戦いは尾張・美濃の争いから、畿内の秩序をめぐる争いへ広がっていきます。

美濃攻略を動かした人物

美濃をめぐる関係は、信長と龍興の一騎打ちではありません。道三から義龍・龍興へ続く斎藤氏、そして国を支えた有力家臣たちの動きが、稲葉山城の帰属を変えました。

「濃姫の縁で美濃を得た」と見ない

信長と帰蝶の婚姻は、尾張と美濃の関係を考える大切な入口です。ただし、婚姻があったから信長が美濃を継げたわけではありません。道三の死から稲葉山城の攻略までには十年以上があり、その間に当主も家臣団も替わっています。

三つの読み解きポイント

  • 道三の死で、前提が変わった

    道三と信長の関係は、義龍が美濃を握ったことでそのまま政治的な力にはなりませんでした。信長は新しい斎藤氏と戦うことになります。

  • 城は当主一人では守れない

    美濃三人衆は兵・城・地域の人脈を持つ有力家臣でした。彼らが信長側へ移ったことは、龍興が内側の支えを失うことを意味します。

  • 岐阜は、次の段階のための本拠だった

    稲葉山城を得た信長は、城下を岐阜と改めました。翌年の上洛につながる、尾張から中央への足場です。

美濃攻略、岐阜への飛躍についてのよくある疑問

なぜ信長は美濃にこだわったのか?

美濃は尾張の北に接し、京都へ向かう街道の要でした。舅の道三から美濃を譲るという書状を得ていたとする話もあり、信長にとって美濃は上洛のために欠かせない国でした。

斎藤義龍は信長より強かったのか?

義龍の代の斎藤氏は信長の侵攻を何度も退けており、少なくとも美濃を守る力は十分にありました。義龍が35歳で急死しなければ、信長の美濃攻略はさらに遅れていたとみられます。

美濃三人衆はなぜ寝返ったのか?

稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全は西美濃の有力な国衆くにしゅうで、若い龍興の統率に不満を持っていました。竹中半兵衛たけなか はんべえが稲葉山城を一時乗っ取った事件(1564年)も、斎藤家中の緩みを示しています。信長は彼らに所領の安堵を約束して味方につけました。

「岐阜」はいつから使われた名前か?

1567年の稲葉山城攻略の直後、信長が命名したとされます。それ以前は「井ノ口」と呼ばれていました。詳しくは稲葉山城攻略で整理しています。

参考にした資料

斎藤氏三代、美濃三人衆、稲葉山城から岐阜への転換を、公開されている自治体・公的機関の資料を参照して独自に整理しています。婚姻の時期や個別の交渉の細部には、史料の解釈による違いがあります。