犬山城を持つ、信長の同族
信清は、犬山城を築いた織田信康の子とされます。木曽川を望む犬山は、尾張と美濃の境目に近い要地です。信清はこの城を基盤に、信長とは別の勢力として尾張北部に存在しました。
織田信清
犬山城主。尾張北部と木曽川の交通を押さえる、有力な織田一門でした。
織田信長
清洲を基盤に尾張の主導権を広げます。信清は協力者でもあり、最後に残る対立相手にもなりました。
岩倉織田氏
1558年の浮野の戦いで信長・信清がともに戦った、尾張北部の大きな対抗勢力です。
同じ織田家でも、同じ目的ではない
信清と信長は、ともに岩倉織田氏と対立する局面では協力しました。しかし岩倉が倒れると、今度は犬山側と清洲側の利害がぶつかりやすくなります。尾張を一つの勢力にまとめようとする信長と、犬山の独自性を保とうとする信清は両立しにくくなりました。
| 1558年 | 浮野の戦いで信清は信長方に加わり、岩倉織田氏と戦う側に立ちます。 |
|---|---|
| 対立の背景 | 岩倉城が落ちた後、両者は対立へ向かいます。直接の原因は公的な資料では確かめられず、尾張北部の主導権をどちらが握るかという構図で読むのが無難です。 |
| 1565年 | 信長が犬山城を攻め、信清は敗走。犬山は信長側の拠点になります。 |
協力者から、尾張統一の最後の壁へ
父・信康の後を継ぎ、犬山を基盤にします。
岩倉攻略をはかる信長が浮野で岩倉城主・織田信賢と戦ったとき、信長方として加わります。
信長が小牧山に城を築くと支城の小口城が明け渡され、犬山の家老も信長方に付きます。孤立した犬山を信長が攻め、信清は城を失います。尾張北部の大きな独立拠点は信長側へ移りました。
犬山を押さえた信長は、小牧山から美濃攻略を本格化させ、1567年の岐阜城へ進みます。
信清は「信長の敵」というだけでは足りません。 浮野の戦いでは信長方に加わり、尾張北部の主導権をめぐって後に対立した人物です。この変化こそ、信長の統一が同族の連携を再編する過程だったことを示しています。
ここだけ覚える
- 織田信清は、犬山城を拠点にした信長の同族。
- 岩倉織田氏との戦いでは信長に協力したが、その後は尾張北部の主導権をめぐって対立した。
- 犬山城の落城は、信長が尾張をまとめ、美濃へ進む条件を整えた出来事だった。
参考にした資料
- 犬山市「犬山市歴史的風致維持向上計画」(信清が信長の伯父・織田信康の子で、天文16年〜永禄8年に犬山城主だったこと、永禄8年〔1565〕に信長が侵攻して信清が敗走したこと)
- 犬山市「文化財保存活用地域計画 資料」(年表に、織田信康が木之下城を城山に移したこと、天文16年に信清が犬山城主となり、永禄8年に信長に犬山城を攻められて落城したこと)
- 一宮市地図情報サイト「138マップ」「浮野古戦場跡」(永禄元年〔1558〕、岩倉攻略をはかる清洲城主・織田信長と岩倉城主・織田信賢が浮野で衝突し、犬山城主・織田信清が信長方に加わったこと、戦死者を弔った首塚跡に「浮野合戦場跡」の碑が建つこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之上」(太田牛一著、1881年刊)(首巻。22コマに、信長が小牧山へ移って要害を築くと、20町ほど隔てた於久地〔小口〕の城が明け渡されて城兵が犬山へ籠もったこと、犬山の家老で黒田城主の和田新介と於久地城主の中嶋豊後守が丹羽五郎左衛門を通じて信長方に付き、犬山が取り籠められたこと)
信清と信長の対立の年次・細部には資料による表現差があります。本ページでは、浮野の戦いでの協力から犬山城落城へ至る大きな流れを中心に整理しました。対立の直接の原因は、公的な資料では確かめられないため断定していません。