まず、尾張の織田家を分けて見る
信長の時代の尾張には、一つの「織田家」だけがあったわけではありません。清洲・岩倉・那古野・犬山などを拠点に、複数の系統が並んでいました。犬山織田氏は、木曽川沿いの北部を基盤にした一族として捉えると分かりやすくなります。
清洲織田氏
岩倉織田氏
岩倉城・伊勢守家
尾張上四郡(尾張北部の四つの郡)を基盤にした系統です。信長は1559年に岩倉城を落とします。
織田弾正忠家
信定→信秀→信長
那古野・勝幡などを足場に力を伸ばした信長の家です。やがて尾張全体の主導権を取ります。
犬山織田氏
信康→信清
犬山城を拠点に、木曽川流域で独自の力を持ちました。信長との関係は協力から対立へ変わります。
犬山織田氏は、清洲織田氏・岩倉織田氏と同じ守護代家として並べるより、犬山城を基盤にした有力な織田一族として見るのが大切です。 尾張の国全体の場所と勢力を先に整理したいときは、尾張国とはからたどれます。
信康が築き、信清が拠点にした犬山城
信長の叔父とされる信康が、木曽川を見下ろす現在地に犬山城を築いたと伝えられます。尾張北部と美濃の境目を意識する立地でした。
信康の子・信清が犬山城を拠点にします。信長の従兄弟にあたり、木曽川流域に独自の勢力を持つ存在になります。
信長が岩倉攻略をはかって浮野で岩倉城主・織田信賢と戦ったとき、信清は信長方に加わりました。この段階では、両者は尾張北部の対抗勢力を崩す側に立っていました。
協力者だった信清は、なぜ信長と対立したのか
岩倉側と戦うまでは利害が重なった
1558年の浮野の戦いでは、信長と信清は同じ側に立ちました。岩倉側を弱めることは、犬山側にとっても有利だったと考えられます。
岩倉城落城の後、関係が崩れた
岩倉城落城後、両者の関係は崩れます。原因を旧岩倉領の配分に求める説明もありますが、公的な資料では確かめられません。尾張北部に残る信清の力は、信長にとって無視できないものでした。
1565年、犬山城を失う
信長は犬山城を攻め、信清は城を失います。犬山側の独自勢力は後退し、尾張北部の主導権は信長側へ移りました。
この対立を読むと、信長の尾張統一は「岩倉城を落として終わり」ではないと分かります。岩倉側を倒した後にも、犬山の信清のような織田一族との力関係を整理する必要がありました。犬山城攻略は、信長が美濃へ向かう前に尾張北部の足場を固める出来事でもあります。
犬山織田氏を知ると、何が見えてくる?
| 尾張は一枚岩ではない | 信長と同じ織田一族でも、拠点と利害はそれぞれ異なりました。犬山織田氏はその分かりやすい例です。 |
|---|---|
| 木曽川がつくる戦略 | 犬山は尾張北部から美濃を意識する位置にあります。城と川を押さえることは、北へ進む信長にとって重要でした。 |
| 尾張統一から美濃攻略へ | 1565年の犬山城攻略で北部の不安が小さくなり、1567年の美濃攻略・岐阜への移転へ向かう条件が整っていきます。 |
ここだけ覚える
- 犬山織田氏は、信康が築いた犬山城を信清が拠点にした織田一族である。
- 信清は浮野の戦いでは信長方に加わったが、岩倉城落城の後に対立し、1565年に犬山城を失った。
- 犬山城攻略は、信長が尾張北部を固め、美濃へ進む足場を整える出来事だった。
参考にした資料
- 犬山市「犬山城の見学案内」(天文6年〔1537〕に織田信長の叔父・織田信康が築城したと伝えられること、元和3年〔1617〕に成瀬正成が徳川秀忠から拝領して以来成瀬氏が城主を務めたこと、現存天守が昭和10年に国宝に指定されたこと)
- 犬山市「犬山市歴史的風致維持向上計画」(信長の伯父にあたる織田信康が木ノ下から現在地に城を移したとされること、城主一覧で天文6〜16年が信康、天文16年〜永禄8年が信清であること、永禄8年〔1565〕に信長が侵攻して信清が敗走したこと)
- 一宮市地図情報サイト「138マップ」「浮野古戦場跡」(永禄元年〔1558〕、岩倉攻略をはかる清洲城主・織田信長と岩倉城主・織田信賢が浮野で衝突し、犬山城主・織田信清が信長方に加わったこと、戦死者を弔った首塚跡に「浮野合戦場跡」の碑が建つこと)
信康・信清と犬山城の経過は、犬山市・一宮市の公開資料をもとに整理しました。信長と対立した直接の原因は、公的な資料では確かめられないため断定していません。系図や戦闘の細部には資料によって表現差があるため、本文では信長との協力・対立と尾張北部の主導権に焦点を置いています。