松平家とは?
- 出発点は三河の松平郷。初代とされる松平親氏が松平郷に入り婿として定着した、と伝わる。伝承の部分が多く、史料で確かめられるのは15世紀以降。
- 一つの家ではなく、一族の集まり。岩津、安祥、岡崎などへ広がるなかで多くの分家が生まれ、「十八松平」とも呼ばれる。分家どうしが争うこともあった。
- 宗家の流れが清康・広忠・家康。安祥から岡崎へ移った家が宗家となり、清康の代に三河の大半を従えた。守山崩れで没落し、今川家への従属を経て家康が再建する。
- 家康の代に「徳川」へ。1566年、家康は宗家の名字を徳川に改めた。他の松平一族はそのまま松平を名乗り、徳川家の親族・家臣として続いた。
家のひろがり
松平家は、どう広がり、どう分かれたのか
- 01松平郷から岩津へ
三河加茂郡の松平郷に始まった松平家は、15世紀に岩津へ進出して平野部に足場を得ました。このころから子を各地に分けて置き、分家が増えていきます。
- 02安祥松平家の台頭
岩津の本家が衰えると、安祥を拠点とする分家が一族の中心になりました。この安祥松平家が、のちの宗家です。
- 03岡崎へ、そして清康の統一
松平清康(家康の祖父)が岡崎城に本拠を移し、三河の大半を従えました。松平家の最盛期ですが、1535年の守山崩れで清康が殺され、一族は再び争います。
- 04今川への従属と家康の再建
松平広忠(家康の父)は今川義元の力で岡崎に戻りますが、松平家は今川家の従属下に入りました。桶狭間の戦いのあと家康が岡崎へ戻り、一族と家臣をまとめ直して三河を統一します。分家の一つ長沢松平家も、1561年に居城の長沢の城(今の愛知県豊川市)を家康に攻め落とされて従いました。その8代当主松平康忠は家康の妹・矢田姫を妻に迎え、宝飯郡の内に領地を与えられています。分かれた一族を、戦いと婚姻の両方で主家へ結び直した例です。
徳川との関係
家康が徳川を名乗ったあと、松平一族はどうなったのか
- 宗家だけが徳川になった。1566年の改姓は家康の家に限られ、他の松平一族は松平のままだった。松平を名乗る一族は、徳川家の親族として家臣団の上位に位置づけられた。
- 「松平」は与えられる名字になった。江戸時代には、家康の子孫の家(越前松平家など)や、有力な外様大名(前田・島津・伊達など)にも松平の名字が与えられた。徳川家との結びつきを示す名誉の名字として使われた。
- 十八松平の家々も大名・旗本として続いた。大給、深溝、桜井、長沢などの松平家は、それぞれ大名や旗本として江戸時代を通じて存続した。
徳川家そのものの全体像は徳川家のページで、名字が変わった意味は新田源氏とはで整理しています。