要点
- 新田氏は清和源氏の名門。源義家の孫・新田義重が上野国新田荘に住んだのが始まり。足利氏とは同じ源義家の子孫にあたる。
- 新田義貞が鎌倉幕府を倒した。1333年、義貞は鎌倉を攻め落として幕府を滅ぼしたが、のちに足利尊氏と争って敗れ、新田氏は衰えた。
- 徳川家は新田氏の支流を称した。新田一族の得川(世良田)氏の子孫が三河に流れて松平家になった、という系譜を家康は採用した。
- 系譜は確かめられない。松平家と得川氏をつなぐ確かな史料はなく、官位を得るため、また将軍となるために整えられた系譜と考えられている。
徳川家はなぜ新田源氏を名乗ったのか
- 011566年:改姓と三河守
家康は朝廷から三河守に任じられるにあたり、名字を松平から徳川に改めました。このとき家康は藤原氏の一員として任官したと考えられており、まだ源氏を前面に出してはいません。
- 02源氏への切り替え
その後、家康は新田源氏の得川氏につながる家として系譜を整え、源氏を称するようになります。時期や経緯には不明な点が残ります。
- 031603年:征夷大将軍
征夷大将軍は源氏の家系が就くものという通念があり、鎌倉の源頼朝、室町の足利氏はいずれも源氏でした。家康が源氏を称したことは、将軍となる資格を整える意味を持ったと見られています。
秀吉が関白という公家の官職を選んだのに対し、家康は武家の頂点である将軍を選びました。その前提として、源氏の系譜が必要だったという見方です。詳しくは征夷大将軍とはで整理しています。
系譜の真偽をどう考えるか
戦国時代の大名が、名門の子孫を称して系譜を整えることは珍しくありませんでした。織田家が平氏を称したのも同じ例です。大切なのは血筋が本当かどうかより、なぜその系譜が必要だったかを読むことです。徳川家の場合、三河守への任官、諸大名と並ぶ家格、そして征夷大将軍という官職が、源氏の系譜を求めた理由でした。織田家の出自をめぐる議論は織田家のページで扱っています。