清康の進軍と、突然の死
松平清康は永正8年(1511)に生まれ、13歳で家督を継いで三河国を統一したと伝わります。天文4年(1535)、尾張の守山へ出陣した清康は家臣に殺害され、わずか25歳で亡くなりました。松平家はこの事件で大きな転機を迎えました。
| 松平清康 | 徳川家康の祖父。大永4年(1524)に安祥城から岡崎城へ入り、三河国を統一したと伝わります。 |
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| 守山城 | 清康が討たれた当時、信長の叔父・織田信光が守っていました。その後、信長の父・織田信秀に属し、桶狭間の戦い後に廃城になったといいます。 |
| その後の松平家 | 松平氏による三河支配は大きく揺らぎ、松平家は苦難の道を歩むことになったと伝わります。清康の子・広忠(家康の父)も天文18年(1549)に亡くなりました。 |
| 清康を悼む | 清康の墓は岡崎市魚町の大林寺にあります。家康は永禄5年(1562)、祖父を弔うため岡崎に随念寺を創建し、肖像画を寄進したと伝わります。守山城跡にも寛永4年(1637)、菩提を弔う宝勝寺が建てられました。 |
なぜ尾張ルートで読むのか
守山崩れは信長の尾張統一より前の事件です。 清康を討った守山城は、信長の叔父・信光や父・信秀に連なる尾張織田氏の拠点でもありました。三河の松平氏と尾張の織田氏が守山でぶつかったこの出来事は、村木砦、鳴海・大高、桶狭間、そして清洲同盟へ続く東海の長い背景の一つといえます。
ここだけ覚える
- 守山崩れは天文4年(1535)、三河を統一した松平清康が守山で家臣に殺害された事件。享年25。
- 清康の死で松平氏の三河支配は大きく揺らぎ、松平家は苦難の道を歩むことになったと伝わる。
- 守山城は当時、信長の叔父・織田信光が守り、清康の死後は信長の父・信秀に属したという。
- 清康の墓は岡崎市の大林寺にあり、家康は永禄5年(1562)に随念寺を建てて祖父を弔った。
参考にした資料
- 名古屋市守山区「守山城跡」(守山城の規模・守山崩れの舞台・その後織田信秀に属し廃城になったことを紹介)
- 名古屋市守山区「もりやま歴史浪漫紀行 守山区と徳川家康」(清康が家康の祖父であること、守山城を織田信光が守っていたこと、松平家が三河支配を失い苦難の道を歩んだこと、守山城跡に宝勝寺が建てられたことを紹介)
- 岡崎市「市指定:絵画 絹本著色松平清康像」(清康の生年・家督相続・岡崎城入城・三河国統一・守山での死・享年25・家康による随念寺創建と肖像画寄進を紹介)
- 岡崎市「市指定:史跡 松平清康墓 松平広忠墓」(清康の墓が岡崎市魚町の大林寺にあること、子の広忠が天文18年に没したことを紹介)
守山城を守っていた人物やその後の帰属については、資料によって書き方が異なります。本ページでは、清康の死と三河・尾張の関係への影響を中心に整理しました。