事件・合戦ページ / 1535年 / 家康の祖父が尾張で命を落とす

守山崩れもりやまくずれ

三河を統一した松平清康まつだいら きよやすが尾張へ出陣した際、守山で家臣に殺害された事件です。享年25でした。
松平氏の三河支配は大きく揺らぎ、松平家は苦難の道を歩むことになったと伝わります。信長・家康の同盟より前に、尾張と三河がすでに深く関わっていたことを知る入口です。

松平清康守山城三河1535年

清康の進軍と、突然の死

松平清康は永正8年(1511)に生まれ、13歳で家督を継いで三河国を統一したと伝わります。天文4年(1535)、尾張の守山へ出陣した清康は家臣に殺害され、わずか25歳で亡くなりました。松平家はこの事件で大きな転機を迎えました。

松平清康徳川家康の祖父。大永4年(1524)に安祥城から岡崎城へ入り、三河国を統一したと伝わります。
守山城清康が討たれた当時、信長の叔父・織田信光おだ のぶみつが守っていました。その後、信長の父・織田信秀おだ のぶひでに属し、桶狭間の戦い後に廃城になったといいます。
その後の松平家松平氏による三河支配は大きく揺らぎ、松平家は苦難の道を歩むことになったと伝わります。清康の子・広忠(家康の父)も天文18年(1549)に亡くなりました。
清康を悼む清康の墓は岡崎市魚町の大林寺にあります。家康は永禄5年(1562)、祖父を弔うため岡崎に随念寺を創建し、肖像画を寄進したと伝わります。守山城跡にも寛永4年(1637)、菩提を弔う宝勝寺が建てられました。

なぜ尾張ルートで読むのか

守山崩れは信長の尾張統一より前の事件です。 清康を討った守山城は、信長の叔父・信光や父・信秀に連なる尾張織田氏の拠点でもありました。三河の松平氏と尾張の織田氏が守山でぶつかったこの出来事は、村木砦、鳴海・大高、桶狭間、そして清洲同盟へ続く東海の長い背景の一つといえます。

ここだけ覚える

  • 守山崩れは天文4年(1535)、三河を統一した松平清康が守山で家臣に殺害された事件。享年25。
  • 清康の死で松平氏の三河支配は大きく揺らぎ、松平家は苦難の道を歩むことになったと伝わる。
  • 守山城は当時、信長の叔父・織田信光が守り、清康の死後は信長の父・信秀に属したという。
  • 清康の墓は岡崎市の大林寺にあり、家康は永禄5年(1562)に随念寺を建てて祖父を弔った。

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参考にした資料

守山城を守っていた人物やその後の帰属については、資料によって書き方が異なります。本ページでは、清康の死と三河・尾張の関係への影響を中心に整理しました。