松平清康とは?
何をした人物か
清康は1511年に生まれ、若くして松平家の家督を継ぎました。1520年代に岡崎城へ本拠を移し、ここを拠点として三河の東西へ勢力を広げます。敵対する国衆を攻め、あるいは従わせて、三河のほぼ全域を影響下に置いたとされます。松平家が「三河の松平」として他国に知られる存在になったのは、この清康の代です。
ところが1535年、織田信秀と争うために尾張へ出陣した清康は、守山の陣中で家臣の阿部正豊に斬られて死去しました。正豊が父を清康に処罰されると誤解したためと伝わりますが、事件の背景には不明な点が多く残ります。
当主を突然失った松平家は一族の内紛に陥り、清康が築いた勢力はあっという間に崩れました。孫の家康が人質として幼少期を送ることになった原因は、この守山崩れにさかのぼります。
年表で追う
- 011511年:誕生
松平家の当主の子として生まれる。
- 021520年代:岡崎城へ
本拠を安祥から岡崎へ移し、三河平定を進める。
- 031535年:守山崩れ
尾張守山の陣中で家臣に殺される。25歳。松平家は没落へ。
清康を読むときに気をつけたいこと
- 守山崩れの動機は確定していない。「阿部正豊が父の処罰を誤解した」という説明は後世の記録に基づくもので、当時の史料で裏づけられているわけではない。
- 「三河統一」は誇張されている可能性がある。清康の事績は家康を顕彰する江戸時代の記録で語られることが多く、どこまで三河を実際に従えていたかは研究上も検討が続いている。
- 名乗りや系譜も後から整えられた面がある。清康が源氏の流れをくむ「世良田」を称したとする話も、徳川家の系譜づくりと切り離して読む必要がある。