城・場所ページ / 低湿地の城・成田氏の本拠

忍城おしじょう

忍城とは?

成田なりた氏が利根川と荒川のあいだの低湿地に築いたと伝わる城で、1590年の小田原征伐では石田三成の水攻めを受けながら落ちず、小田原城が開いたあとの7月14日に、交渉によって豊臣方へ引き渡されました。今の埼玉県行田ぎょうだ市にあります。

15世紀後半に成田氏が築いたと伝わる城です。4代目の城主・成田氏長なりた うじながは、北条氏の側につきました。
1590年、城主の氏長は小田原城へ呼ばれ、忍城は一族と家臣が守ります。6月、石田三成らが城を囲みました。
秀吉は水攻めを命じ、三成らは城のまわりに堤を築いて川の水を引き入れます。水は城や城下町よりも別の方面に多く溜まり、堤は決壊しました。
小田原城が開いたあとも、忍城は北条方の城として残ります。城主の氏長が開城を命じ、交渉がまとまって、7月14日に城は引き渡されました。
城跡には土塁どるい(土を盛って築いた土手)の一部が残り、行田市郷土博物館が建っています。三成らが築いた堤の一部も、石田堤いしだづつみとして残っています。

成田氏の城——川にはさまれた低湿地に築かれる

忍城は、室町時代の文明年間(1469〜87年)に、この地を統一した成田氏が築いたと伝えられる。北に利根川、南に荒川が流れる低湿地にあり、沼の中の島や、川がつくった自然の堤防を利用して築かれた。1590年までのおよそ100年、成田氏の4代の当主がこの城を本拠にした。

評判 沼地を生かした城

忍城は、沼地の地形を利用した、攻めにくく守りやすい城だった。「難攻不落の名城」とうたわれている。

成田氏長 家を継ぎ、北条方につく

成田氏長は、父と対立して父を追い、1566年に家を継いだ。上杉謙信うえすぎ けんしんと北条氏の両方から味方に誘われ、北条氏の側についた。1574年には、謙信に忍城の城下を焼かれている。

包囲——城主は小田原、忍城は城代じょうだいが守る

1590年、豊臣秀吉とよとみ ひでよしは小田原の北条氏を攻めるため、関東へ大軍を送った。北条氏は小田原城に籠もり、北条氏の配下にあった成田氏長も小田原城へ呼ばれて、籠城する。主のいない忍城は、成田氏の一族と家臣が守ることになった。

守る側 城代が二人続く

忍城の守りは、氏長の叔父の成田泰季なりた やすすえが城代(城主に代わって城を預かる役)として率いた。泰季は籠城のさなかに急死し、その子の成田長親なりた ながちかが城代を継いだ。

1590年5〜6月 攻める側

豊臣軍は関東の北と南から北条方の城を攻め落としていった。5月の初めには、忍城・鉢形城はちがたじょう・岩付城いわつきじょう・小田原城・八王子城・津久井城つくいじょうが、なお北条方の城として残っていた。秀吉は石田三成に、約2万の軍勢で忍城を攻めるよう命じる。6月の初めに着いた三成は、大谷吉継おおたに よしつぐ・長束正家なつか まさいえらとともに城を囲んだ。三成の本陣は、埼玉さきたま古墳群の一つの丸墓山まるはかやま古墳の頂上に置かれた。

水攻め——堤を築いて川の水を引き入れる

秀吉は忍城を水攻めするよう命じた。三成らは城のまわりに堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れて、城を水に浸そうとした。この堤が、のちに石田堤と呼ばれる。全長28キロメートルの堤をわずか一週間で造ったと言われるが、実際には、もとからあった自然の堤防や、まわりより少し高い土地をつなぎ合わせたものと考えられている。

結果——水は別の方面に多く溜まり、堤が決壊する

土地の形のために、引き入れた水は城や城下町よりも、今の行田市下忍しもおし・堤根つつみねの方面に多く溜まった。やがて堤は決壊し、水攻めは城を落とせないまま失敗に終わった。

開城——小田原が開いたあと、7月14日に引き渡す

北条氏が小田原城を明け渡したのは、1590年7月9日である。それでも忍城は、北条方の城として最後まで残った。小田原に籠もっていた城主の氏長が開城を命じ、開城の交渉がまとまって、7月14日、忍城は豊臣方へ引き渡された。忍城は、水攻めで落ちたのではなく、北条氏の降伏を受けて開かれた城である。

城を出た成田氏 預けられ、大名に戻る

成田氏の一族は忍城を退去し、氏長らは秀吉の武将の蒲生氏郷がもう うじさとに預けられた。翌1591年、氏長は下野しもつけの烏山からすやま城主となり、大名に戻った。石高は2万石余りだった。

今の城跡——土塁の一部と、石田堤が残る

忍城は明治6年(1873年)に取り壊され、城跡には土塁の一部が残る。城跡に立つ御三階櫓ごさんかいやぐら(櫓は、城の見張りや守りのために建てる建物)は、行田市郷土博物館の開館に合わせて1988年に再建されたもので、博物館の展示室になっている。もとの御三階櫓は1702年に完成し、今の水城すいじょう公園のあたりに建っていた。再建の際に、場所を移している。

行田市堤根 石田堤(県指定史跡)

三成らが築いた堤のうち、行田市堤根には長さ約282メートルが残り、1959年に埼玉県の史跡に指定された。残る堤は、自然の堤防の上に1〜2メートルほど土を盛ったものである。

鴻巣市袋 石田堤(市指定史跡)

行田市堤根の堤に隣り合って、鴻巣こうのす市袋ふくろにも堤が残る。こちらは鴻巣市の史跡に指定され、史跡公園として整えられている。

忍城の疑問に答える

「浮き城」と呼ばれるのはなぜ?

水攻めを受けても城がなかなか沈まなかったため、人々は城が浮くからだと考え、「浮き城」の名が知られるようになったと伝わる。

『のぼうの城』と忍城には、どんな関係がある?

『のぼうの城』は、1590年の忍城の水攻めを題材にした小説で、映画にもなった。

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参考にした資料

  • 行田市「忍城跡」(成田氏による築城と4代の居城・低湿地の立地・「難攻不落の名城」の評判・利根川と荒川の水を引いた水攻めと「浮き城」の名・堤の決壊・氏長の命による開城・家康の関東入りのあと忠吉が入ったことと江戸時代の城主・御三階櫓の1702年の完成・明治6年の取り壊し・土塁と御三階櫓の再建)
  • 行田市「石田堤」(読み「いしだづつみ」・6月の包囲と包囲した武将〔資料では大谷吉隆〕・28キロメートル一週間の言い伝えと実際の造り・城や城下町よりも下忍・堤根に水が溜まり堤が決壊したこと・北条氏の降伏による開城・現存約282メートルと県の史跡指定・鴻巣市袋の史跡公園)
  • 行田市「市報ぎょうだ」No.780(2011年6月1日)「行田の歴史再発見10 石田三成の忍城水攻め」(郷土博物館 鈴木紀三雄。関東への大軍の派遣と北条氏の籠城・氏長が小田原へ呼ばれたこと・泰季と長親の城代・5月初めに残った北条方の城・三成への2万の軍勢での攻撃命令と6月初めの着陣・水攻めの準備と堤・秀吉が水攻めを指示したこと・北条方の城が忍城だけになったこと・開城の交渉と7月14日の引き渡し・一族の退去と氏長が蒲生氏郷に預けられたこと・翌年に烏山城主となり大名として復活したこと)
  • 行田市「成田氏長判物」(1566年の家督・謙信と北条氏から誘われて北条氏についたこと・1574年に謙信に忍城下を焼かれたこと・小田原城に籠城したこと・烏山城で2万石余りを得たこと)
  • 行田市郷土博物館「御三階櫓」(もとの櫓の位置と、博物館の開館に合わせて1988年に場所を移して再建され、展示室になっていること)
  • 文化庁 日本遺産ポータルサイト「埼玉古墳群」(丸墓山古墳が埼玉古墳群の一つで、水攻めのとき三成の本陣が丸墓山古墳の頂上に置かれたこと)
  • 鴻巣市「国・県・市指定文化財一覧」(鴻巣市袋の石田堤が市の史跡に指定されていること)
  • 小田原市「小田原デジタルアーカイブ」北条氏政・氏照の墓(小田原城が7月9日に明け渡されたこと)
  • 行田市「行田郷土かるた【せ】戦国の歴史を刻む浮き城「忍城」」(沼地の地形を利用した攻めにくく守りやすい城だったこと・『のぼうの城』が水攻めを題材にした小説で、映画化されたこと)