事件ページ / 1586〜1587年・九州一円

秀吉の九州平定ひでよしのきゅうしゅうへいてい

秀吉の九州平定とは?

1586年に豊後ぶんごへ攻め込んだ島津氏を、大友宗麟の救援要請を受けた秀吉が大軍で九州へ下って止め、翌年、島津義久が泰平寺で降伏した戦役。降伏の場になった泰平寺は、今の鹿児島県薩摩川内さつませんだい市にあります。

1586年、島津軍が大友氏の本国・豊後へ入り、府内ふないの町が焼けます。大友宗麟は秀吉に救援を求めていました。
同年12月、四国勢を中心とする豊臣方の先発隊が、戸次川へつぎがわ島津家久しまづ いえひさに敗れます。
1587年3月、秀吉が大坂を発ちます。秀吉は筑前・肥後を、弟の秀長は豊前・豊後・日向を進みます。
4月17日の夜、秀長軍に囲まれた日向の高城を救おうとした島津軍が、根白坂(今の宮崎県木城きじょう町)の豊臣方の陣に夜襲をかけ、敗れます。
5月、島津義久が薩摩川内の泰平寺で秀吉に降ります。
6月から7月、秀吉は博多で九州の領地を割り直し、伴天連ばてれん追放令を出して大坂へ帰ります。肥後では、その年のうちに国衆一揆が起きました。

豊後侵攻——島津が大友の本国に入り、宗麟が秀吉に救いを求めた

島津氏は、1578年の耳川の戦いで大友氏を、1581年に水俣で相良氏を、1584年の沖田畷の戦い龍造寺氏を退け、九州の他の三つの大勢力すべてに勝っていた。秀吉は島津氏と大友氏の双方に和睦を勧めていたが、島津氏は応じず、大友攻めを進めた。宗麟は秀吉に救援を求め、秀吉はその求めを受けて島津を討つ出兵を決める。宗麟の求めがいつ、どのように秀吉へ届いたかは、史料では確定できない。1586年(天正14年)7月、岩屋城の戦い高橋紹運たかはし じょううんに足止めされた島津軍は、年内に豊後へ向く。

天正14年 島津が九州のほぼ全域を手中にした

島津氏は、天正14年に豊後へ攻め入り、九州のほぼ全域を手中にした。豊後攻めの先鋒(先頭に立つ部隊)は、義久の弟・島津家久だった。

天正14年 府内の町が焼けた

府内(今の大分市)の町は、天正14年の島津軍の侵入でほとんどが焼失した。一辺200メートルの大友館を中心とする町で、大友氏の菩提寺(先祖を祀る寺)・万寿寺も、このとき焼けた。

天正14年 丹生島城は落ちなかった

大友宗麟は、天正14年、臼杵うすきの海に浮かぶ島に築いた丹生島城(今の大分県臼杵市)に籠もって島津軍を迎えた。城には、1576年にポルトガル人から贈られた大砲「国崩し」が据えてあった。島津軍は国崩しで撃退され、城は落ちなかった。

先発隊の敗戦——四国勢が戸次川で崩れた

秀吉の本隊が九州へ渡るのは、翌年の春である。それより前に、宗麟の求めを受けた秀吉が先に送った、四国勢を中心とする先発隊が豊後へ渡り、島津軍と向き合っていた。

敗戦のあと 豊後は島津軍のまま冬を越した

大友義統は、戸次川の敗戦のあと、龍王城(今の大分県宇佐市安心院あじむ)まで退いた。豊後の島津軍が退いたのは、翌年、秀吉の本隊が到着してからだった。

二手の進軍——秀吉は西を、秀長は東を下った

秀吉は1587年(天正15年)3月1日に大坂を発ち、3月25日に長門の赤間関(今の山口県下関市)、28日に豊前の小倉(今の北九州市)へ入った。軍勢は20万を超えたと伝わる。

筑前 秋月が戦わずに降った

筑前の領主・秋月種実は、天正15年、秀吉軍を相手に2万余の兵で古処山城(今の福岡県朝倉市)に立てこもった。北側に着陣した秀吉軍が一夜で城を築いたのを見て、戦意を失ったと伝わる。種実は、楢柴という名の茶入(抹茶を入れる茶道具)を献上して助命されたとも伝わる。子の種長は、島津攻めの先鋒を命じられた。

西回り 秀吉の道は肥後を南へ

秀吉は、4月11日に肥後の南関、16日に隈本(今の熊本市)、19日に八代、27日に水俣から薩摩の出水へと、九州の西側を下った。八代では、球磨くまの相良氏が秀吉に面会し、戦わずに従っている。

東回り 秀長の道は日向へ

羽柴秀長は、豊前・豊後・日向を進んだ。その軍勢は10万とも伝わる。秀吉の本隊が薩摩へ入るより三週間早く、秀長軍が日向で島津の本軍と向き合った。

根白坂——高城を救えず、島津の戦線が折れた

高城は、標高60メートルの山城で、1578年の高城川合戦(耳川の戦い)で大友軍に囲まれても落ちなかった島津方の城だった。1587年4月、ここを囲んだ秀長軍に対し、都於郡とのこおり城(今の宮崎県西都さいと市にあった城)の島津本軍は救援を迫られる。

4月6日 秀長軍が高城を囲んだ

羽柴秀長の軍は、天正15年4月6日に高城を包囲した。守将の山田有信は1,300余りの兵で防戦一方となり、都於郡城の島津本軍に救援を求めた。

2万 島津本軍が救援に出た

島津義久は、山田有信の要請を受け、弟の義弘・家久を中心に2万の軍勢で高城の救援へ向かった。高城を救うには、豊臣方が根白坂(高城と同じ今の木城町にある坂)に置いた陣を破る必要があった。

4月17日夜 夜襲は朝までに崩れた

島津軍は、4月17日の夜、根白坂を守る宮部継潤みやべけいじゅんの陣へ夜襲をかけた。周辺に陣取っていた羽柴方の大名たちが援軍に駆けつけ、島津軍は多数の犠牲を出し、朝方に撤退した。囲まれたままの高城は、この戦役でも落ちないまま、島津の降伏を迎えた。

泰平寺——髪を剃った義久が、秀吉に降った

根白坂の敗北で、島津氏は薩摩への侵攻を許した。秀吉の本隊は、肥後の水俣から国境を越え、島津氏の本国・薩摩へ入った。

5月3日 秀吉が泰平寺に陣を置いた

秀吉は、5月3日、薩摩川内の泰平寺へ着いて陣営を置いた。根白坂の夜襲から半月後だった。

5月 義久が髪を剃って降った

島津義久は、根白坂の敗北をきっかけに剃髪ていはつ(髪を剃って出家すること)し、その姿で5月、泰平寺で秀吉に降った。

九州国分——博多で領地を割り直し、肥後で一揆が起きた

降伏を受けた秀吉は、来た道を戻って6月7日に筑前の箱崎へ戻った。箱崎も博多も、今の福岡市の中にある。博多で、秀吉は市街の復興を命じるとともに、九州国分(誰がどの土地を持つかを決める割り当て)を行う。7月14日に大坂へ帰城した。

誰がどこを持つことになったか
島津義久薩摩。
島津義弘しまづ よしひろ大隅と、日向の一部。
大友義統豊後一国をそのまま認められた。父の宗麟には日向国が示されたが、宗麟は辞退した。
佐々成政さっさ なりまさ肥後。
小早川隆景こばやかわ たかかげ筑前。天正16年から名島城を居城とした。
黒田官兵衛くろだ かんべえ豊前の中津。天正15年から中津城を築き始め、初代の城主になった。
立花宗茂たちばな むねしげ筑後三郡。柳川を城地とし、大友家の部将から独立した大名になった。
秋月種長日向の財部(今の宮崎県高鍋たかなべ町)に3万石。筑前・筑後・豊前の旧領は没収。
相良氏球磨くま郡一郡。平定後も領主として存続した。

5月13日 城の取捨は博多へ戻る前に始まった

秀吉は、まだ薩摩の泰平寺にいた天正15年5月13日に、肥後について、城を築き、城主を決め、要らない城は壊せと命じた。肥後では、どの城を残すかまで秀吉が指示している。領地の配分と城の取捨は、一つの作業として進んだ。

6月19日 箱崎で伴天連追放令が出た

秀吉は、6月19日、筑前の箱崎で5か条の「定」を出し、宣教師(伴天連)に20日以内の国外退去を命じた。教会は壊され、長崎・茂木・浦上は没収されて秀吉の直轄地(秀吉が直接治める土地)になった。

7月3日 割り直しは7月に入っても続いた

秀吉は、7月3日、秋月種長に「日向国高鍋城をあてがうが、知行方目録(領地の明細)は中納言(羽柴秀長)より受けとれ」と朱印状(秀吉の印を押した命令書)で伝えた。高鍋城は表の財部にあった城で、財部の地名はのちにこの朱印状をもとに高鍋と改められた。義久の降伏から2か月後のことである。

天正15年 肥後国衆一揆が起きた

肥後国衆一揆は、天正15年、佐々成政の支配に背いた肥後の国衆が起こした反乱で、中心にいたのは山鹿(今の熊本県山鹿市)に館を構えていた隈部くまべ親永だった。国衆がなぜ背いたのかは、史料では確定できない。成政は、肥後に着いた直後からその対応に追われた。

秀吉の九州平定が残したもの——博多の再建、唐入りの足場、肥後の火種

島津氏は本国を明け渡さないまま降伏し、秀吉を呼んだ宗麟はその年のうちに津久見つくみで死んだ。57歳だった。九州の勢力争いは、勝った者が土地を取る争いから、秀吉が土地を配る仕組みへ入れ替わった。

博多の再建 焼け跡の町割りと茶会

博多の町は、秀吉が九州へ来る前の戦乱で焼け、人々が周辺に離散していた。秀吉は「太閤町割り」と呼ばれる都市計画で町を復興させ、博多商人の嶋井宗室しまいそうしつ神屋宗湛かみやそうたんがこれを助けた。その復興と同じ天正15年、博多に隣り合う箱崎では、博多商人も招いた茶人・千利休せんのりきゅうの茶会が開かれている。焼け跡の町割りと茶会は、同じ時期に同じ土地で動き出した。

唐入りの足場 肥後の統治は明への出兵をにらんで進んだ

肥後の統治は、秀吉の唐入り(明への出兵)構想の軍事態勢の一端として進められた。唐入りは、のちに朝鮮出兵として実行に移される。

秀吉の九州平定の疑問に答える

主な戦場は今のどこ?

府内と戸次川(大分県大分市)、丹生島城(大分県臼杵市)、古処山城(福岡県朝倉市)、高城と根白坂(宮崎県木城町)、都於郡城(宮崎県西都市)、泰平寺(鹿児島県薩摩川内市)まで、四つの県に散らばる。

「九州平定」のほかに、どう呼ばれる?

同じ戦役が「九州征伐」「九州遠征」「九州攻め」「島津征伐」とも呼ばれ、呼び方は一つに決まっていない。

兵数はどこまで確かなのか?

秀吉方の「20万余」も秀長軍の「10万とも」も伝えによる数字で、資料ごとに幅がある。

九州のほぼ全域を取った島津が、なぜ本国を残せた?

秀吉が本国を残した理由は、史料では確定できない。義久に残された薩摩と、義弘の大隅は、島津氏が1577年に統一を終えた本来の守護国・三州(薩摩・大隅・日向)のうちの二国にあたる。

現地に何か残っている?

泰平寺(薩摩川内市)には、和睦の情景を示す「和睦石」が残る。木城町には根白坂古戦場跡と、空堀・土塁の残る高城の城址(城山公園)がある。山鹿市の隈部氏館跡と、大分市の万寿寺跡は国の史跡に指定されている。津久見市の宗麟公園には大友宗麟の墓が二つ残る(一つは昭和52年に建てられたキリスト教式の墓)。

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参考にした資料