人物ページ / 1558〜1605年 / 豊後の戦国大名・豊臣政権・改易

大友義統おおとも よしむね

大友義統は、大友宗麟の長男で、豊後の大友氏22代当主です。朝鮮出兵(文禄の役)での撤退をとがめられて1593年に豊後を失い、1600年には石垣原の戦いで黒田官兵衛くろだ かんべえ(如水)の軍勢に敗れました。

大友義統は何を担ったか

  • 大友宗麟の長男で、豊後の大友氏22代当主。
  • 1586年、島津軍の豊後侵攻で大友・四国の連合軍が戸次川に敗れ、義統は高崎城から龍王城(宇佐市安心院)へ退いた。
  • 九州を平定した豊臣秀吉から、豊後一国を安堵された。
  • 1593年(文禄2)、朝鮮からの撤退を問われて豊後を没収され、400年にわたる大友氏の豊後支配が終わった。
  • 1600年、お家再興をめざして石田方につき豊後へ戻ったが、石垣原の戦いに敗れて降伏した。

生涯を通して見る

大友義統は、大友宗麟の長男で、大友氏の22代当主です。当主として出した文書も残っています。そのうちの一通は、府内(今の大分市)にある祇園社領の屋敷を税所氏に安堵し、屋敷地の一部に町人を住まわせて、集めた屋敷料で社殿の屋根を葺き替えるよう指示したもので、府内の町の成り立ちを知る数少ない史料とされています。

1586年(天正14)、島津軍が豊後に攻め込みます。秀吉の命を受けた四国の仙石氏・長宗我部氏らが援軍に来ましたが、戸次川(大野川)で大友・四国の連合軍は敗れました。義統は高崎城、さらに龍王城(宇佐市安心院)へと退き、主力のいなくなった府内の町は、島津軍の侵攻の混乱の中でほとんど焼けてしまいました。やがて秀吉の本隊が九州に着くと島津軍は豊後から退き、九州を平定した秀吉は義統に豊後一国を安堵しました。

文禄の役では、義統も出兵を命じられ、黒田長政くろだ ながまさの軍勢と共に朝鮮へ渡りました。義統が「吉統」の名で家臣の中村左京亮に出した感状には、左京亮が黄州城での戦いで傷を負いながら奮戦したことが書かれています。しかし義統は、明軍に囲まれた小西行長こにし ゆきながの援軍要請に応じずに退いたことで秀吉の怒りを買い、1593年(文禄2)5月、豊後を没収されて毛利輝元もうり てるもとのもとに幽閉されました。『国史大辞典』は、翌年には水戸の佐竹義宣に預けられたと記しています。豊後には、熊谷直盛・中川秀成ら豊臣家の家臣が配置されました。

秀吉の死後の1600年(慶長5)、義統はお家再興をめざして石田方(西軍)につき、毛利・石田方から武器を与えられて豊後へ向かいます。9月9日に別府の浜脇浦はまわきうらに上陸し、13日に石垣原(別府市)で黒田官兵衛(如水)の軍勢と戦いました。戦いの前半は大友方が優勢でしたが、兵数でまさる黒田勢に敗れます。15日、義統は剃髪して、妹婿の母里もり太兵衛の陣へ降り、命は助けられて中津へ送られました。豊後を取り戻すことはできませんでしたが、子の義乗は徳川家康とくがわ いえやすに預けられて徳川家の家臣となり、大友氏は幕府の儀礼や朝廷との連絡を担う「高家」として続きました。

年表で追う

1586〜87年
島津氏の侵攻と九州平定

戸次川で敗れて龍王城へ退く。九州を平定した秀吉から豊後一国を安堵される。

1592〜93年
文禄の役

黒田長政の軍勢と共に朝鮮へ渡る。黄州城で戦った家臣に「吉統」の名で感状を出す。

1593年
豊後を没収

5月、撤退をとがめられて領国を失い、毛利輝元のもとに幽閉される。

1600年
石垣原の戦い

9月9日に別府へ上陸し、13日に黒田勢と戦う。15日に降伏する。

この人物を読む四つの視点

宗麟の長男

父の代に北部九州6か国を支配した大友氏は、天正14〜15年の島津氏の侵攻で本拠の府内まで焼かれた。

九州平定の意味

豊後一国は秀吉の安堵によって保たれ、その後は秀吉の出兵命令に応える立場になった。

朝鮮出兵

援軍要請に応じずに退いたことが、遠い豊後の領国を失う理由になった。

改易後の豊後

豊臣家の家臣が配置され、400年続いた大友氏の豊後支配が終わった。

戦国・豊臣・江戸初期での意味

義統の豊後支配は、九州平定のあと秀吉の安堵によって続き、秀吉の命令に背いたと見なされると取り上げられました。豊臣政権のもとでは、400年続いた家であっても、領国を保てるかどうかは政権の判断しだいだったことが分かります。1600年の挙兵も旧領を取り戻すための動きでしたが、石垣原での敗北で実らず、大友氏は大名ではなく徳川家の家臣として残る道をたどりました。

読み違えないために

改易の理由は、文化遺産オンラインの解説では「朝鮮在陣中の戦線離脱」、別府市教育委員会の冊子では「明軍に包囲された小西行長の援軍要請に応じず撤退」と書かれ、大分市の資料は「味方が敗れたという情報を聞き、戦場からいち早く撤退」としています。言い方は違いますが、どれも戦場から退いたことが問われた点で共通します。また「義統」と「吉統」は同じ人物で、読みはどちらも「よしむね」です。

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参考にした資料