大友義統は何を担ったか
- 大友宗麟の長男で、豊後の大友氏22代当主。
- 1586年、島津軍の豊後侵攻で大友・四国の連合軍が戸次川に敗れ、義統は高崎城から龍王城(宇佐市安心院)へ退いた。
- 九州を平定した豊臣秀吉から、豊後一国を安堵された。
- 1593年(文禄2)、朝鮮からの撤退を問われて豊後を没収され、400年にわたる大友氏の豊後支配が終わった。
- 1600年、お家再興をめざして石田方につき豊後へ戻ったが、石垣原の戦いに敗れて降伏した。
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大友義統は、大友宗麟の長男で、大友氏の22代当主です。当主として出した文書も残っています。そのうちの一通は、府内(今の大分市)にある祇園社領の屋敷を税所氏に安堵し、屋敷地の一部に町人を住まわせて、集めた屋敷料で社殿の屋根を葺き替えるよう指示したもので、府内の町の成り立ちを知る数少ない史料とされています。
1586年(天正14)、島津軍が豊後に攻め込みます。秀吉の命を受けた四国の仙石氏・長宗我部氏らが援軍に来ましたが、戸次川(大野川)で大友・四国の連合軍は敗れました。義統は高崎城、さらに龍王城(宇佐市安心院)へと退き、主力のいなくなった府内の町は、島津軍の侵攻の混乱の中でほとんど焼けてしまいました。やがて秀吉の本隊が九州に着くと島津軍は豊後から退き、九州を平定した秀吉は義統に豊後一国を安堵しました。
文禄の役では、義統も出兵を命じられ、黒田長政の軍勢と共に朝鮮へ渡りました。義統が「吉統」の名で家臣の中村左京亮に出した感状には、左京亮が黄州城での戦いで傷を負いながら奮戦したことが書かれています。しかし義統は、明軍に囲まれた小西行長の援軍要請に応じずに退いたことで秀吉の怒りを買い、1593年(文禄2)5月、豊後を没収されて毛利輝元のもとに幽閉されました。『国史大辞典』は、翌年には水戸の佐竹義宣に預けられたと記しています。豊後には、熊谷直盛・中川秀成ら豊臣家の家臣が配置されました。
秀吉の死後の1600年(慶長5)、義統はお家再興をめざして石田方(西軍)につき、毛利・石田方から武器を与えられて豊後へ向かいます。9月9日に別府の浜脇浦に上陸し、13日に石垣原(別府市)で黒田官兵衛(如水)の軍勢と戦いました。戦いの前半は大友方が優勢でしたが、兵数でまさる黒田勢に敗れます。15日、義統は剃髪して、妹婿の母里太兵衛の陣へ降り、命は助けられて中津へ送られました。豊後を取り戻すことはできませんでしたが、子の義乗は徳川家康に預けられて徳川家の家臣となり、大友氏は幕府の儀礼や朝廷との連絡を担う「高家」として続きました。
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この人物を読む四つの視点
宗麟の長男
父の代に北部九州6か国を支配した大友氏は、天正14〜15年の島津氏の侵攻で本拠の府内まで焼かれた。
九州平定の意味
豊後一国は秀吉の安堵によって保たれ、その後は秀吉の出兵命令に応える立場になった。
朝鮮出兵
援軍要請に応じずに退いたことが、遠い豊後の領国を失う理由になった。
改易後の豊後
豊臣家の家臣が配置され、400年続いた大友氏の豊後支配が終わった。
戦国・豊臣・江戸初期での意味
義統の豊後支配は、九州平定のあと秀吉の安堵によって続き、秀吉の命令に背いたと見なされると取り上げられました。豊臣政権のもとでは、400年続いた家であっても、領国を保てるかどうかは政権の判断しだいだったことが分かります。1600年の挙兵も旧領を取り戻すための動きでしたが、石垣原での敗北で実らず、大友氏は大名ではなく徳川家の家臣として残る道をたどりました。
改易の理由は、文化遺産オンラインの解説では「朝鮮在陣中の戦線離脱」、別府市教育委員会の冊子では「明軍に包囲された小西行長の援軍要請に応じず撤退」と書かれ、大分市の資料は「味方が敗れたという情報を聞き、戦場からいち早く撤退」としています。言い方は違いますが、どれも戦場から退いたことが問われた点で共通します。また「義統」と「吉統」は同じ人物で、読みはどちらも「よしむね」です。
参考にした資料
- 大分市「大友氏のその後」(義統が宗麟の長男であること・戸次川の敗戦と高崎城・龍王城への退却・府内の焼失・秀吉による豊後一国の安堵・朝鮮からの撤退と1593年の改易・400年の豊後支配の終わり・石垣原での敗北・子の義乗と高家)
- 別府市教育委員会『べっぷの文化財 No.44 石垣原合戦』(文禄の役で黒田長政の軍勢と共に渡海したこと・小西行長の援軍要請に応じず撤退したこと・文禄2年5月の豊後没収と毛利輝元のもとでの幽閉・熊谷直盛や中川秀成らの配置・1600年9月9日の浜脇浦上陸・13日の合戦と前半の大友方優勢・15日に剃髪して妹婿の母里太兵衛の陣へ降ったこと・中津への送致)
- 文化遺産オンライン(文化庁)「大友氏遺跡」(22代義統が朝鮮在陣中の戦線離脱を理由に文禄2年に除封されたこと・21代宗麟の北部九州6か国支配・天正14〜15年の島津氏の侵攻と府内の焼亡)
- 文化遺産オンライン(文化庁)「大友吉統感状」(吉統の読みと生没年1558〜1605年・文禄の役で黄州城で奮戦した中村左京亮への感状であること)
- 文化遺産オンライン(文化庁)「大友義統書状」(税所氏への祇園社領府内屋敷の安堵と、屋敷料による社殿の屋根葺き替えの指示・府内の町の形成を知る史料であること)
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「大友宗麟の子大友義統について流罪になり佐竹氏に預けられた時の資料はあるか」(『国史大辞典』の、改易後に毛利輝元に預けられ、翌年水戸の佐竹義宣に預けられたとする記述の紹介)
- 人吉市「人吉の文化財」(年表に、1586年に相良長毎が島津軍とともに豊後大友氏を攻めたとあること)