合戦ページ / 1600年9月・豊後国別府

石垣原の戦いいしがきばるのたたかいとは

石垣原いしがきばるの戦いは、1600年(慶長5年)9月13日、豊後の別府で行われた「九州の関ヶ原」です。改易されていた元豊後国主・大友義統おおともよしむねが、西軍の支援を受けて旧領回復を狙い豊後に上陸。これを、中津から出陣した黒田官兵衛くろだかんべえ如水じょすい)と、細川家臣・松井康之まついやすゆきの軍が破りました。本戦の関ヶ原の2日前に激突し、義統が降伏したのは関ヶ原当日の9月15日。豊後大友氏400年の歴史がここで終わりました。

1600年9月13日 関ヶ原の2日前 如水 対 大友義統おおとも よしむね 大友400年の終わり

要点

  • 「もう一つの関ヶ原」が九州で起きていた。中央の決戦とほぼ同時に、九州でも東軍方(黒田・細川の留守部隊)と西軍方(大友・毛利方の諸城)が戦っていた。石垣原はその天王山。
  • 大友義統は「お家再興」を懸けて戻ってきた。義統は朝鮮出兵での失態で豊後を改易された元国主。毛利輝元もうり てるもとら西軍の後押しで豊後に上陸し、旧臣を集めて別府の立石に陣を置いた。
  • 迎え撃ったのは隠居の官兵衛だった。子の長政が主力を率いて関ヶ原にいたため、中津城の如水は蓄えていた金銀で兵を集め、9月9日に出陣。細川領の木付城(杵築)を守る松井康之と合流して大友勢に向かった。
  • 激戦を決めたのは兵力差だった。9月13日、昼から夕方まで石垣原で戦い、緒戦は大友方が押したものの、数に勝る黒田・松井勢が盛り返し、大友方の柱だった吉弘統幸らが討死して勝敗が決した。
  • 義統の降伏は関ヶ原当日。9月15日、義統は剃髪して黒田方に降った。同じ日に中央では西軍が敗れ、大友家の大名復帰の望みは完全に消えた。
経過

上陸から降伏まで(別府市の整理による)

  1. 018月ごろ、義統が上方から豊後へ

    大坂で西軍の後押しを受けた義統は、旧領回復を目指して豊後へ向かった。豊後には旧臣たちが残っており、上陸とともに兵が集まった。

  2. 029月9日、別府に上陸。如水も中津を出陣

    義統は別府の浜脇に上陸して立石に布陣。同じ日、報せを受けた如水は中津城から豊後へ向かって出陣した。

  3. 039月10日〜11日、大友方が木付城を攻める

    大友方は細川家臣・松井康之が守る木付城(現在の杵築市)を攻めたが落とせず、立石の陣へ退いた。

  4. 049月13日、石垣原の激戦

    木付城に着いた黒田方の援軍と松井勢が別府へ出撃。昼から夕方にかけて別府の扇状地・石垣原で激突した。緒戦は大友方が有利だったが、数に勝る黒田・松井勢が押し返し、吉弘統幸ら大友方の有力武将が討死して勝敗が決した。この夜、如水が実相寺山に着陣した。

  5. 059月15日、義統が降伏

    義統は黒田方の陣に下り、石垣原の戦いは終わった。同じ日、関ヶ原で東軍が勝利。如水はこの後、九州各地の西軍方の城を次々に攻略していく。

顔ぶれ

両軍の中心人物

立場この戦いではその後
黒田如水(官兵衛)中津の隠居。主力は長政と関ヶ原へ金銀で集めた兵を率いて出陣し、勝利九州の西軍方諸城を攻略。戦後は長政が筑前52万石へ
松井康之細川家臣。木付城を預かる大友方の攻撃をしのぎ、石垣原で黒田方と共に戦う細川家の重臣として豊前・肥後へ
大友義統元豊後国主。改易中の身で西軍につく立石に本陣。敗れて9月15日に剃髪して降伏身柄を預けられ、大名復帰はならず。1610年没
吉弘統幸大友家譜代の勇将。義統を支えて参陣緒戦で黒田・松井勢を押すが、乱戦の中で討死別府に墓と陣跡が残り、地元で武名が語り継がれる

吉弘統幸は一度は東軍方についた黒田家のもとに身を寄せていたが、旧主の挙兵を知って大友方に戻ったと伝わる。別府市内には義統の本陣跡、統幸の陣跡・墓などが残り、市が説明看板を設置している。

検証

「如水は天下を狙っていた」は本当か

伝承 語られてきた場面

「関ヶ原が長引くとみた如水は、その間に九州を切り従え、あわよくば天下を狙っていた。決戦が一日で終わったと聞いて『長政の左手は何をしていたのか』と悔しがった」――という物語が広く知られる。江戸時代の逸話集や軍記で形づくられた場面で、如水の知略を象徴する話として人気が高い。

史料 確かめられること

如水が留守部隊と新規に集めた兵で出陣し、石垣原で大友勢を破ったこと、その勢いで九州各地の西軍方(毛利・石田方)の城を次々に攻略したことは記録から確かめられる。ただし、それが「天下取りの大計画」だったのか、東軍方としての九州平定だったのかを示す確かな文書はなく、結果から野望を断定することはできない。

  • 確かなのは「動きの速さ」。義統上陸の報から数日で出陣し、勝利の直後から休まず城攻めを続けた。如水が中央の決戦と連動して九州の再編を見据えていたことは、行動そのものから読み取れる。
  • 「天下狙い」の逸話は、家康の警戒とセットで語られる。戦後、黒田家の加増が九州平定の働きに比べて小さいとされるのは家康が如水を警戒したから――という語りも、同じ物語の一部として広まった。恩賞の評価は難しく、これも断定はできない。
どう読むか

石垣原から、関ヶ原の全体を読む

  • 関ヶ原は「一つの野原の戦い」ではなかった。中央の決戦と同じ数日間に、九州では石垣原、信州では上田、北陸・東北でも戦いが起きていた。全国の大名が同時に立場を選ばされたのが1600年9月だった。
  • 改易された家の「再興戦」でもあった。義統にとってこの戦いは、失った豊後を取り戻す最後の機会だった。負けたことで、鎌倉以来400年続いた豊後大友氏は大名として二度と戻らなかった。
  • 本戦が一日で終わったことが、九州の意味を変えた。関ヶ原が長引けば、九州を制した者の発言力は跳ね上がったはず。決戦の速さが、如水の勝利を「天下の分け目」ではなく「戦後処理の先取り」にした。

如水の生涯は黒田官兵衛くろだ かんべえ、大友家の盛衰は大友氏で整理しています。

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参考にした資料