勢力ページ / 鎌倉以来400年、豊後の守護の家

大友氏おおともし

大友氏(大友家)は、豊後国(大分県)の府内ふないを本拠とした名門で、鎌倉時代から戦国の終わりまでおよそ400年にわたって豊後を治めました。戦国期の大友宗麟の代には九州北部の六か国に守護職を持ち、府内にはキリスト教の宣教師や南蛮船が訪れて、国際色豊かな都市が生まれます。しかし1578年の耳川の戦いで島津氏に大敗して転落が始まり、子の大友義統が豊臣秀吉とよとみ ひでよしに改易され、関ヶ原の戦いで豊後回復に失敗して、大名としての大友氏は終わりました。

鎌倉以来の豊後守護 宗麟の六か国と南蛮文化 1578年 耳川の戦い 義統の改易、関ヶ原で終焉
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要点

  • 鎌倉幕府の御家人から始まった。初代の大友能直が源頼朝に仕えて豊後・筑後の守護職を得た。相模出身の家が九州に根を下ろし、室町時代も豊後守護を世襲した。
  • 宗麟の代に九州北部を治めた。21代大友宗麟は豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を得て、九州北部の最大勢力となった。
  • 府内は南蛮文化の都市になった。1551年にフランシスコ・ザビエルを迎え、以後ポルトガル船や宣教師が訪れた。病院や教会が建ち、宗麟自身も洗礼を受けた。
  • 耳川の戦いで転落した。1578年、日向で島津氏に大敗し、多くの重臣を失った。国衆の離反が相次ぎ、1586年には島津軍に豊後まで攻め込まれた。
  • 秀吉に救われ、そして改易された。秀吉の九州平定で豊後一国は保たれたが、22代義統は朝鮮出兵での失態で改易。関ヶ原で西軍について敗れ、大名としての大友氏は終わった。
家のはじまり

大友氏は、なぜ豊後にいたのか

  • 相模から来た御家人。大友能直は相模国大友郷(神奈川県)の出身で、源頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となり、豊後・筑後の守護職を与えられた。はじめは鎌倉に住み、代官を九州に置いていた。
  • 元寇を機に九州へ定着した。13世紀後半、元の襲来に備えて一族が豊後に移り住み、以後、豊後の在地領主として根を張った。
  • 室町時代も豊後守護を世襲した。幕府のもとで豊後守護の地位を保ち、筑後・豊前方面にも影響力を持った。一族の内紛や国衆との争いは絶えなかったが、家そのものは400年続いた。

大友氏は、守護の家がそのまま戦国大名になった型で、同じ型の武田氏今川家と比べても歴史が古い家です。府内の町については府内のページで整理しています。

頂点

宗麟の時代、大友氏はどこまで広がったのか

  1. 011550年:二階崩れの変

    父・大友義鑑が家督をめぐる家臣の争いの中で殺され、20歳の義鎮(宗麟)が家督を継ぎました。血で始まった家督相続でした。

  2. 021550年代:六か国の守護へ

    大内氏が滅んだあとの北九州に勢力を広げ、幕府から豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を得ました。九州探題にも任じられ、九州北部の最大勢力となります。

  3. 03南蛮文化の受け入れ

    1551年にザビエルを府内に迎え、以後ポルトガルとの貿易とキリスト教の布教を認めました。府内には教会や日本初の西洋式病院が建ち、宗麟は1578年に洗礼を受けています。

  4. 04家臣団の厚み

    立花道雪・高橋紹運・立花宗茂ら、筑前方面を守る勇将に恵まれました。毛利氏との争いでは門司城・立花山城をめぐって長く戦っています。

宗麟の生涯は大友宗麟おおとも そうりんで詳しく整理しています。

転落と終焉

大友氏はなぜ、400年の家を失ったのか

  1. 011578年:耳川の戦い

    日向へ進出した大友軍は、島津氏に耳川で大敗しました。重臣の多くが戦死し、家中の統制が一気に緩みます。筑前・肥前の国衆が次々と離反しました。

  2. 021586年:島津軍の豊後侵攻

    九州統一を目指す島津氏が豊後へ攻め込みました。宗麟は大坂へ赴いて秀吉に救援を求め、豊臣軍の九州出兵を引き出します。

  3. 031587年:秀吉の九州平定

    豊臣軍が島津氏を降し、大友義統には豊後一国が安堵されました。六か国の守護から一国の大名へ縮小した形です。宗麟は同年に死去しました。

  4. 041593年:義統の改易

    朝鮮出兵のさなか、義統は明軍の攻撃を受けた小西行長こにし ゆきながを見捨てて退いたとされ、秀吉に改易されました。豊後は豊臣家臣に分け与えられます。

  5. 051600年:関ヶ原と終焉

    義統は西軍について豊後回復を図りましたが、石垣原の戦いで黒田如水(孝高)に敗れました。大名としての大友氏は、ここで終わります。

義統の子は徳川家康とくがわ いえやすに預けられ、のちに幕府の高家こうけ(儀式を担う家)として大友の名を伝えました。耳川の戦いは耳川の戦いで、義統については大友義統おおとも よしむねで読めます。

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大友氏をめぐる人物

大友氏についてのよくある疑問

大友宗麟はキリシタン大名だったのか?

宗麟は1578年に洗礼を受けてドン・フランシスコと名乗っており、その意味ではキリシタン大名です。ただし若いころから一貫して信仰していたわけではなく、長く禅宗にも帰依し、貿易の利益や南蛮の技術を重んじる現実的な面も持っていました。晩年の日向出兵にキリスト教の理想国建設の意図があったとする見方もありますが、史料からどこまで言えるかは議論があります。

大友氏はなぜ耳川で負けたあと立ち直れなかったのか?

耳川で重臣を多く失ったこと自体も大きいですが、大友氏の支配はもともと国衆の連合に支えられており、当主の威信が落ちると離反が連鎖しやすい構造でした。また宗麟と義統の父子の間に方針の違いがあり、家中が二つの中心を持っていたことも統制を弱めたとみられます。島津氏の攻勢が強まるなかで、秀吉に頼る以外の道がなくなっていきました。

義統はなぜ改易されたのか?

1593年、朝鮮の平壌で明軍に攻められた小西行長を救援せず退却したことが、秀吉の怒りを買ったとされます。ただし退却の経緯には諸説があり、義統だけの責任とは言い切れません。もともと秀吉は大友氏の弱体化を見ており、九州の大名配置を組み替える機会として改易を用いたという見方もあります。

大友の家は完全に絶えたのか?

大名としては1600年で終わりましたが、義統の子・義乗は徳川家康に預けられ、のちに幕府に仕えました。その系統は江戸時代を通じて幕府の高家として続き、大友の名を伝えています。また大友氏の旧臣には、立花宗茂のように独立した大名として家を立てた者もいました。

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参考にした資料