勢力ページ / 西の京・山口を築いた西国一の大名

大内氏おおうちし

大内氏(大内家)は、周防国(山口県)の山口を本拠とした一族で、戦国前半の西日本で最大の勢力でした。南北朝時代に守護となり、室町時代を通じて周防・長門を中心に中国・北九州へ勢力を広げ、大内義隆の代には七か国の守護職を持ちました。朝鮮・明との貿易で栄えた山口は、応仁の乱で荒れた京都から公家や文化人が移り住み、「西の京」と呼ばれます。しかし1551年、重臣の陶晴賢が謀反を起こして義隆は自害。大内氏は事実上滅び、その領国は毛利氏に引き継がれました。

周防・長門の守護 義隆の七か国・西国一の大名 山口=西の京 1551年 陶晴賢の謀反で滅亡
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要点

  • 出自は周防の在庁官人。百済の王子の子孫を称したが、実際は周防国衙の役人を務めた在地の家で、南北朝の動乱で守護に成り上がった。
  • 幕府と深く結びついた。大内義弘は室町幕府に重用されたのち応永の乱で討たれ、大内政弘は応仁の乱で西軍の主力となり、大内義興おおうち よしおきは将軍を奉じて上洛し10年京都にいた。
  • 貿易と文化で栄えた。朝鮮・明との貿易を握り、山口には公家・僧・連歌師が集まった。雪舟も大内氏のもとで活動し、ザビエルも山口で布教を許された。
  • 義隆の代に七か国の大名へ。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前などの守護職を持ち、西国一の大名となった。ただし1542年の出雲遠征の失敗で武断から文治へ傾いた。
  • 家臣の謀反で滅んだ。1551年、重臣の陶晴賢が兵を挙げ、義隆は大寧寺で自害。晴賢が立てた大内義長も1557年に毛利元就に滅ぼされ、大内氏は終わった。
家のはじまり

大内氏は、どうやって西国一になったのか

  1. 01在庁官人から守護へ

    大内氏は周防国の役所(国衙)を担う在地の有力者でした。南北朝の動乱で足利方について力を伸ばし、周防・長門の守護となります。

  2. 02義弘:応永の乱

    大内義弘は六か国の守護を兼ねて幕府に重用されましたが、将軍足利義満に警戒され、1399年の応永の乱で討たれました。大内氏は一時衰えますが、周防・長門は保ちます。

  3. 03政弘:応仁の乱の西軍

    大内政弘は応仁の乱で大軍を率いて上洛し、西軍の主力として10年戦いました。乱後に帰国すると領国を固め、山口の文化的な基礎を築きます。

  4. 04義興:将軍を奉じて上洛

    大内義興は追われた将軍足利義稙を山口で保護し、1508年に奉じて上洛。管領代として10年間京都で幕政を動かしました。この間に尼子氏が山陰で伸び、義興は帰国して対抗します。

大内氏は守護から戦国大名になった型ですが、幕府の中枢に関わり続けた点が他の守護大名と違います。周防の地理は周防国で、本拠の町は山口で整理しています。

西の京

山口はなぜ「西の京」と呼ばれたのか

  • 貿易の富があった。大内氏は博多を押さえ、朝鮮・明との貿易を独占に近い形で握った。瀬戸内の海運とあわせて、領国の経済力は他の大名を圧倒した。
  • 京都の文化人が移り住んだ。応仁の乱で荒れた京都から公家・僧・連歌師が山口へ下り、大内氏は彼らを保護した。画僧の雪舟も大内氏の庇護を受けて活動している。
  • 町は京都に倣って作られた。山口の町は京都を手本に碁盤の目状に整えられ、寺社が建ち並んだ。大内氏の館跡は国の史跡で、築山館や凌雲寺跡などが残る。
  • キリスト教も受け入れた。1551年、フランシスコ・ザビエルは義隆から山口での布教を許され、日本で最初の本格的な布教拠点の一つとなった。

義隆の時代の山口は、戦国日本で最も国際的で文化的な都市の一つでした。義隆については大内義隆おおうち よしたかで詳しく読めます。

滅亡

大内氏はなぜ、家臣に滅ぼされたのか

  1. 011542〜43年:出雲遠征の失敗

    義隆は尼子氏の本拠・月山富田城を攻めましたが大敗し、養子の晴持を失いました。以後、義隆は軍事に消極的になり、文化と朝廷との交流に傾いたとされます。

  2. 02家臣団の分裂

    文治を重んじる側近と、武断を求める陶隆房(晴賢)ら武将たちの対立が深まりました。晴賢は大内氏の庶流・陶氏の当主で、周防守護代を務める最有力の重臣でした。

  3. 031551年:大寧寺の変

    陶晴賢が兵を挙げて山口を襲い、義隆は長門の大寧寺で自害しました。晴賢は大友宗麟の弟を迎えて大内義長と名乗らせ、当主に据えます。

  4. 041555〜57年:毛利氏に取って代わられる

    晴賢の支配に反発した毛利元就は、1555年の厳島の戦いで晴賢を討ちました。元就は1557年に義長を滅ぼし、大内氏の領国は毛利氏のものとなりました。

大内氏の滅亡は、西国の主役が大内氏から毛利氏へ交代する転機でした。晴賢については陶晴賢すえ はるかたで、その後の主役は毛利氏で整理しています。

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大内氏をめぐる人物

大内氏についてのよくある疑問

大内氏は本当に百済の王子の子孫なのか?

大内氏は百済の聖明王の子・琳聖太子の子孫を称し、朝鮮との外交でもこの系譜を使いました。ただし確かめられる史料はなく、周防の在庁官人だった家が、貿易相手である朝鮮との関係を深めるために整えた系譜と考えられています。徳川氏の新田源氏や北条氏の鎌倉北条氏と同じく、「なぜその系譜が必要だったか」を読む例です。

なぜ陶晴賢は主君を討ったのか?

出雲遠征の失敗後、義隆が軍事を軽んじて文化や朝廷との交流に傾き、武断派の家臣と対立したことが背景とされます。近年の研究では、晴賢は大内氏の一族の出身であり、謀反は義隆個人を除いて「大内家」を立て直そうとした動きだったとする見方も出ています。大友氏から義長を迎えて大内の家を続けたことは、その見方を裏づけます。

大内氏の文化は何を残したのか?

山口の町割り、瑠璃光寺五重塔、大内氏館跡の庭園などが現存し、雪舟の絵画や大内版と呼ばれる出版物も伝わります。朝鮮から大量に輸入した経典は日本の仏教文化に影響を与えました。戦国大名の文化といえば信長の安土や秀吉の聚楽第が知られますが、それより半世紀早く、山口で本格的な城下町文化が花開いていたことになります。

大内の家は完全に絶えたのか?

義長の死で大名としての大内氏は終わりました。ただし一族には毛利氏に仕えた者や、各地に散った系統があり、江戸時代にも大内の名を伝える家はありました。また大内氏の旧臣の多くは毛利氏の家臣団に組み込まれ、萩藩の中で続いています。

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参考にした資料