勢力ページ / 月山富田城を本拠にした山陰の家

尼子氏あまごし

尼子氏(尼子家)は、出雲国(島根県東部)の月山富田城がっさんとだじょうを本拠とした戦国大名の一族です。近江の名門・佐々木氏(京極氏)から分かれ、出雲の守護代として土着しました。尼子経久が守護の京極氏をしのいで出雲を手中にし、山陰・山陽へ勢力を広げます。孫の尼子晴久あまご はるひさは幕府から八か国の守護に任じられましたが、大内氏、そして毛利氏との争いに敗れ、1566年に月山富田城を開いて降伏しました。その後、山中幸盛(鹿介)ら旧臣が尼子再興を掲げて戦い続けましたが、1578年の上月城で終わりました。

佐々木氏の庶流・出雲守護代 経久の台頭・晴久の八か国 1566年 月山富田城開城 山中幸盛の再興運動
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要点

  • 出発点は出雲の守護代。近江の佐々木氏(京極氏)の一族が近江尼子郷を名字の地とし、出雲守護の京極氏のもとで守護代として月山富田城に入った。
  • 経久が守護をしのいだ。尼子経久は一度は守護代を追われたが、1486年に月山富田城を奪い返し、出雲を手中にした。守護代が主家を押しのけた下剋上の型である。
  • 晴久の代に最大版図。1552年、尼子晴久は幕府から出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後の八か国の守護に任じられた。山陰・山陽にまたがる大勢力だった。
  • 毛利元就に滅ぼされた。1540年の郡山城攻めの失敗から毛利氏との争いが続き、晴久の死後、義久の代の1566年に月山富田城を開いて降伏した。
  • 旧臣が再興を図った。山中幸盛らは尼子勝久を擁して出雲の奪回を図り、織田信長おだ のぶながにも頼ったが、1578年の上月城で敗れて終わった。
家のはじまり

尼子氏は、どこから来た家なのか

  • 近江の佐々木氏の庶流。近江守護の佐々木氏(のちの六角氏・京極氏)から分かれ、近江国の尼子郷を名字の地とした。六角氏とは同じ佐々木一族にあたる。
  • 出雲守護・京極氏の守護代として土着。室町時代、京極氏が出雲・隠岐の守護を務め、一族の尼子氏がその守護代として月山富田城に置かれた。
  • 守護が遠くにいた。京極氏は近江や京都を本拠としていたため、出雲の現地支配は守護代の尼子氏が担った。この構図が、尼子氏の自立を可能にした。

尼子氏は守護代から成り上がった型で、越前の朝倉氏や尾張の織田氏と同じです。同じ佐々木一族の六角氏とあわせて読むと、近江源氏の広がりが見えます。

経久・晴久

尼子氏は、どこまで広がったのか

  1. 011486年:経久の富田城奪回

    尼子経久は守護・京極氏に逆らって守護代を追われましたが、1486年に月山富田城を奇襲で奪い返しました。以後、出雲の国衆を従え、守護をしのぐ実力者となります。

  2. 021520年代:山陰・山陽への拡大

    経久は石見・伯耆・備後などへ勢力を広げ、「十一か国の太守」と呼ばれました。ただし直接支配した範囲は出雲を中心とする数か国で、十一か国は影響が及んだ範囲の誇張を含みます。

  3. 031540〜41年:郡山城攻めの失敗

    晴久(当時は詮久)は大軍で安芸の毛利元就を攻めましたが、大内氏の援軍に敗れて撤退しました。この敗北で尼子氏の勢いは止まり、毛利氏との長い争いが始まります。

  4. 041552年:八か国の守護

    晴久は幕府から八か国の守護職を得て、尼子氏の家格は頂点に達しました。一方で1554年、一族の新宮党(経久の次男・国久の系統)を粛清し、軍の中核を自ら失ったとされます。

経久については尼子経久あまご つねひさで、本拠の城は島根県・安来市の資料に詳しく整理されています。

滅亡と再興運動

尼子氏はなぜ滅び、なぜ「再興」が語られるのか

  • 晴久の急死と義久の降伏。1560年に晴久が急死し、若い義久が継いだ。毛利元就は石見銀山を奪い、1565年から月山富田城を包囲。1566年、義久は城を開いて降伏し、毛利氏の監視下に置かれた。
  • 山中幸盛の再興運動。旧臣の山中幸盛(鹿介)は、京都にいた一族の尼子勝久を擁して1569年に出雲へ攻め込み、一時は富田城近くまで迫った。
  • 織田信長を頼った。出雲奪回に失敗した幸盛らは信長に仕え、羽柴秀吉の中国攻めに加わって1577年に播磨の上月城を任された。
  • 1578年、上月城で終わった。毛利の大軍に囲まれた上月城は救援を得られず開城。勝久は自害し、幸盛は護送中に殺された。尼子再興の動きはここで終わった。

降伏した義久とその弟たちは毛利氏のもとで生き延び、のちに毛利家臣として続きました。毛利氏との争いは毛利氏で読めます。

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尼子氏をめぐる人物

尼子氏についてのよくある疑問

「十一か国の太守」は本当なのか?

経久の時代の尼子氏が山陰・山陽の十一か国に影響を及ぼしたとする表現で、後世の記録によるものです。直接支配していたのは出雲を中心とする数か国で、残りは一時的に従えた国衆の範囲を含みます。晴久の代に幕府から正式に認められた八か国の守護職のほうが、確かめられる数字です。

なぜ晴久は新宮党を粛清したのか?

新宮党は経久の次男・国久の系統で、尼子軍の中核を担う一方、本家をしのぐ力を持っていました。1554年、晴久は国久とその子を殺害しています。理由については、新宮党の専横への反発、当主権力の強化、毛利元就の謀略に乗せられたとする説などがあり、確定していません。結果として尼子氏は軍の主力を失い、毛利氏との争いで不利になったとみられます。

山中鹿介の「七難八苦」の話は本当か?

山中幸盛が三日月に「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという話は、江戸時代以降の逸話で、同時代の史料にはありません。ただし幸盛が尼子氏滅亡後も10年以上再興を掲げて戦い続けたことは事実で、この忠義の姿が逸話を生んだといえます。明治以降、教科書などで広まりました。

尼子の家は完全に絶えたのか?

大名としての尼子氏は1566年の降伏で終わり、再興を掲げた勝久の系統も1578年に絶えました。ただし降伏した義久と弟たちは毛利氏のもとで生き延び、その子孫は毛利家臣として萩藩に続いています。また尼子氏の旧臣の多くは毛利氏に仕え、山陰の国衆として続きました。

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参考にした資料