要点
- 出発点は三河の松平家。岡崎城を拠点とする小さな領主で、東の今川家と西の織田家に挟まれ、家康の幼少期には今川家の人質を出す立場だった。
- 1566年、家康が「徳川」に改めた。朝廷から三河守の官位を受けるのに合わせて、新田源氏の流れをくむ家として名乗りを整えた。松平一族の中で、家康の家だけが徳川を名乗る。
- 家の背骨は三河以来の家臣団。三河一向一揆で一度は割れた家臣団を再統合し、酒井・本多・榊原・井伊らを中心とする譜代の家臣が、家を代々支えた。
- 関東入封から将軍へ。1590年に関東入封で約250万石の大名となり、関ヶ原の戦いを経て1603年に征夷大将軍に。2年で将軍職を秀忠に譲り、徳川家が政権を世襲することを示した。
- 「家を続ける仕組み」を意識して作った。御三家などの一門、親藩・譜代・外様の大名配置、武家諸法度。豊臣家に欠けていた家の広がりと制度を、徳川家は設計した。
松平家から徳川家へ、どう変わったのか
- 01三河の松平家
松平家は三河の山間部から出て、岡崎を拠点に勢力を広げた領主の家です。松平清康(家康の祖父)は三河の大半をまとめましたが若くして家臣に殺され、松平広忠(家康の父)の代には今川家の力を借りなければ家を保てない状態でした。
- 02人質から自立へ
幼い家康(竹千代)は織田家、ついで今川家のもとで人質として育ちます。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると岡崎へ戻り、織田信長と清洲同盟を結んで今川家から自立しました。
- 031566年:「徳川」を名乗る
三河をほぼ統一した家康は、朝廷から三河守の官位を受け、名字を松平から徳川に改めました。源氏の名門・新田氏の流れをくむ家として系譜を整えたもので、松平一族の中で家康の家だけを区別する意味もありました。
つまり徳川家は、織田家や今川家のような守護・守護代の家ではなく、三河の国衆から身を起こした家です。家康の人生そのものは徳川家康のページで、松平家の拠点は岡崎のページで詳しく整理しています。
徳川家の強みは、家臣団にあった
- 三河以来の譜代。松平家の時代から仕える家臣の家々が、徳川家の中核となった。酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政は「徳川四天王」と呼ばれる。
- 三河一向一揆という試練。1563年からの一向一揆では、本多正信ら家臣の一部が一揆方についた。家康は武力と赦免を使い分けて収め、家臣団を再統合した。この経験が、主従の結びつきを強くしたといわれる。
- 敗戦と移封に耐えた組織。三方ヶ原の戦いでの大敗、1590年の関東入封という大きな変化を、家臣団はまとまりを保って乗り越えた。
譜代の家臣が多いことは、血縁の少なかった豊臣家との最も大きな違いです。徳川家は「家」を、血縁だけでなく長年の主従関係で支えていました。
徳川家は、どう将軍家になったのか
- 011590年:関東入封
小田原征伐のあと、秀吉の命で三河・遠江・駿河・甲斐・信濃から関東へ移されました。先祖伝来の土地を離れる大きな変化でしたが、約250万石という豊臣政権最大級の大名になり、江戸を本拠に領国を作り直します。
- 021600年:関ヶ原の戦い
秀吉の死後、五大老の筆頭として実権を握った家康は、関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍を破ります。戦後の大名配置の組み替えで、全国の実権は徳川家に移りました。
- 031603年:征夷大将軍
家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。秀吉が関白という公家の官職を選んだのに対し、家康は武家の頂点である将軍を選びました。
- 041605年:秀忠への譲位
わずか2年で将軍職を三男の徳川秀忠(家康の三男)に譲りました。引退ではなく、将軍職が徳川家の世襲であることを早く示すためで、家康自身は大御所として駿府から政治を続けます。
この流れは関東入封と関ヶ原から江戸幕府へで詳しく追えます。
徳川家は、どうやって「続く家」になったのか
- 将軍職の世襲を早く示した。家康→秀忠→徳川家光と三代で継承の形を固め、「政権は徳川家のもの」という前提を作った。
- 一門を意図的に増やした。家康は多くの子を持ち、九男の徳川義直を尾張、十男の徳川頼宣を紀伊、十一男の徳川頼房を水戸に置いた。これが御三家で、将軍家に跡継ぎがいないときの備えになった。次男の結城秀康(越前)ら、他の子も各地の大名とした。
- 大名を三つに分けて配置した。徳川一門の親藩、古くからの家臣である譜代、関ヶ原の前後に従った外様。要地には親藩・譜代を置き、外様は遠方に配した。
- ルールを文書にした。武家諸法度や禁中並公家諸法度で、大名や朝廷との関係を制度として定めた。個人の力ではなく仕組みで統制する方向へ進んだ。
織田家は信長個人の力に政権が依存し、豊臣家は一門が少なく後継ぎ問題に揺れました。徳川家はその両方を見たうえで、家の広がりと制度を作ったといえます。幕府の仕組みは江戸幕府とはで整理しています。
徳川家をめぐる人物
徳川家についてのよくある疑問
松平家と徳川家は別の家なのか?
同じ家です。1566年に家康が名字を松平から徳川へ改めたもので、家そのものが変わったわけではありません。ただし徳川を名乗ったのは家康の家だけで、ほかの松平一族はそのまま松平を名乗り続けました。のちに家康の子や有力な家臣に松平の名字が与えられることもあり、「松平」は徳川家の親族であることを示す名字として使われていきます。
徳川家は本当に源氏の子孫なのか?
徳川家は新田源氏の子孫を称しましたが、その系譜を裏づける確かな史料はなく、官位を受けるために整えられたものと考えられています。1566年の時点では藤原氏として官位を受けたとする史料もあり、源氏を名乗るようになった経緯には不明な点が残ります。重要なのは血筋の真偽より、征夷大将軍にふさわしい家として自らを位置づけた点です。
なぜ徳川家は続いたのに、織田家・豊臣家は続かなかったのか?
一つの理由には絞れませんが、三河以来の譜代家臣団という土台があったこと、家康が多くの子を各地に配して一門を増やしたこと、将軍職の世襲を早く示したこと、そして大名や朝廷との関係を制度として文書化したことが重なった結果と考えられます。織田家は信長個人の力に、豊臣家は秀吉個人の力に依存しすぎていた面があり、徳川家はそれを見たうえで家の仕組みを作ったといえます。
御三家は何のためにあったのか?
将軍家に跡継ぎがいないとき、一門から将軍を出すための備えです。家康の子である義直(尾張)・頼宣(紀伊)・頼房(水戸)の家がこれにあたり、徳川の名字を許された特別な家として扱われました。実際に八代将軍吉宗は紀伊家から、十五代将軍慶喜は水戸家の出身から将軍となっています。豊臣家が秀頼ひとりに継承を託さざるを得なかったことと比べると、その狙いがよく分かります。