1526〜1549年 / 松平家当主・家康の父・今川への従属

松平広忠まつだいら ひろただ

松平広忠は、徳川家康の父にあたる松平家の当主です。父・松平清康(広忠の父)が家臣に殺されたとき広忠はまだ10歳で、一族の内紛で岡崎を追われました。今川義元の支援で岡崎城に戻りますが、その代わりに今川家への従属を深め、幼い竹千代(のちの家康)を人質に差し出すことになります。1549年、24歳で死去しました。

家康の父 今川義元の支援で岡崎へ復帰 竹千代を人質に

要点

  • 10歳で家を継ぎ、岡崎を追われた。1535年の守山崩れのあと、一族の争いで岡崎城を失い、伊勢や遠江を転々とした。
  • 今川家の力で岡崎へ戻った。1537年ごろ、今川義元の支援を受けて岡崎城に復帰。以後、松平家は今川家に従う立場になる。
  • 織田信秀おだ のぶひでとの戦いのなかで竹千代を人質に出した。今川への従属の証として送った竹千代は、途中で織田方の手に渡り、のちに今川へ移された。
  • 24歳で死去。1549年に岡崎で死去。家臣に刺されたとも病死ともいわれ、はっきりしない。
人物

何をした人物か

広忠の生涯は、父・清康が築いた勢力を失った状態から始まります。守山崩れのあと、松平一族のなかで家督をめぐる争いが起き、幼い広忠は岡崎を離れざるを得ませんでした。今川義元を頼って岡崎城へ戻ることはできましたが、それは松平家が今川家の従属下に入ることを意味しました。

西の尾張では織田信秀が勢力を伸ばし、三河へ攻め込んできます。広忠は今川家の支援を受けて織田家と争いましたが、その代わりに嫡男の竹千代を今川家へ人質として送ることになりました。竹千代は護送の途中で織田方に渡り、数年を尾張で過ごしたのち、今川家のもとへ移されます。

1549年、広忠は岡崎で死去しました。享年24。松平家は当主不在となり、岡崎城には今川家の城代が入ります。家康が岡崎へ戻るのは、11年後の桶狭間の戦いのあとでした。広忠を読むと、家康がなぜ人質として育ち、なぜ今川家からの自立を慎重に進めたのかが見えてきます。

年表

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  1. 011526年:誕生

    松平清康の子として生まれる。

  2. 021535年:父の死と流浪

    守山崩れで父を失い、一族の争いで岡崎を追われる。

  3. 031537年ごろ:岡崎復帰

    今川義元の支援で岡崎城へ戻る。

  4. 041542年:竹千代誕生

    岡崎城で嫡男・竹千代(家康)が生まれる。母は於大の方。

  5. 051547年:竹千代を人質に

    今川家へ送った竹千代が織田方の手に渡る。

  6. 061549年:死去

    岡崎で死去。24歳。岡崎城は今川家の管理下に入る。

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参考にした資料