事件ページ / 1563〜1564年・三河国

三河一向一揆みかわいっこういっき

三河一向一揆は、1563年から翌年にかけて、三河の本願寺系の寺院とその門徒が、若き日の徳川家康(当時は松平家康)に対して起こした一揆です。家康の家臣のなかにも門徒が多く、本多正信らが一揆方についたため、家臣団は二つに割れました。家康は武力と赦免を使い分けて収束させ、この経験がのちの徳川家臣団の強い結束につながったといわれます。

1563〜1564年 家臣団が二つに割れた 本證寺・上宮寺・勝鬘寺 和議と寺院の追放

要点

  • 相手は三河の本願寺系寺院。本證寺ほんしょうじ上宮寺じょうぐうじ勝鬘寺しょうまんじの「三河三か寺」を中心に、門徒が立ち上がった。
  • きっかけは寺の特権をめぐる対立。寺院が持っていた「領主の役人が立ち入れない」特権を、家康方が侵したことが発端とされる。三河統一を進める家康と、自立を保ちたい寺院の衝突だった。
  • 家臣団が二つに割れた。家臣の多くが門徒であり、本多正信、夏目吉信なつめ よしのぶ渡辺守綱わたなべ もりつならが一揆方についた。主君への忠義と信仰の板挟みになった家臣もいた。
  • 和議で収め、寺院を追放した。1564年に和議が成立。家康は一揆に加わった家臣を赦免する一方、寺院を破却し、本願寺教団を三河から追放した。
  • 徳川家臣団の結束の原点になった。帰参した家臣はその後、家康を支える中核となった。分裂を乗り越えた経験が、主従の結びつきを強めたといわれる。
経過

三河一向一揆は、どう進んだのか

  1. 01背景:三河統一の途中

    桶狭間の戦いのあと岡崎に戻った家康は、今川家から自立して三河の統一を進めていました。そのなかで、寺院が持つ特権や領地は、領国を一つにまとめるうえでの壁になっていました。

  2. 021563年:一揆の発生

    家康方が寺院の境内や蔵に手を出したことをきっかけに、三河三か寺を中心とする門徒が蜂起しました。家臣の一部や、家康に反発する国衆もこれに加わります。

  3. 03家臣団の分裂

    門徒である家臣の多くが一揆方につき、松平家臣どうしが戦う事態になりました。一方で、門徒でありながら家康方に残った家臣もおり、信仰と主従のどちらをとるかが一人ひとりに問われました。

  4. 041564年:和議と寺院の追放

    半年あまりの戦いののち和議が成立します。家康は一揆に加わった家臣を赦免しましたが、寺院に対しては厳しく、堂舎を破却して本願寺教団を三河から追放しました。三河で本願寺の寺院が再興を許されるのは、約20年後のことです。

どう読むか

この一揆が徳川家に残したもの

  • 領国の一元化が進んだ。寺院の特権を取り除いたことで、三河は家康のもとで一つにまとまりやすくなった。
  • 家臣団が「選び直された」。一揆方から戻った家臣を赦免したことで、主従の関係は改めて結び直された。本多正信はのちに家康の側近として幕府の基礎づくりを担う。
  • 宗教勢力との向き合い方を学んだ。信長の石山本願寺との戦いに先立つ経験として、家康は門徒の力と、それを抑える難しさを知った。

家臣団が徳川家の強みになった理由は徳川家のページで、加賀での一向一揆は加賀一向一揆で整理しています。

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参考にした資料