要点
- 大坂の陣の直後に出された。1615年、豊臣家を滅ぼした家康が伏見城に大名を集め、秀忠の名で13か条を示した。起草は家康の側近の僧・金地院崇伝。
- 大名の軍事力と結びつきを縛った。城の修築は届け出、新しい城は禁止、幕府の許しのない婚姻は禁止。戦国のような大名どうしの同盟や軍備拡大を防いだ。
- 将軍が代わるたびに出し直された。1635年の徳川家光の改定で参勤交代が制度化されるなど、内容は時代に合わせて変わった。
- 違反すれば家を取りつぶされた。広島城を無断で修築した福島正則が1619年に改易されるなど、法度は実際に大名を裁く根拠として使われた。
内容
何が定められていたのか
- 文武弓馬の道にはげむこと。第一条は大名の心得。武芸と学問の両方を求めた。
- 城の修築は届け出、新しい城は禁止。大名の軍事拠点を幕府の管理下に置いた。
- 幕府の許しなく婚姻を結ばないこと。大名どうしが縁組で結びつき、幕府に対抗する勢力を作ることを防いだ。
- 謀反人や殺人者をかくまわないこと、他国の者を領内に置かないこと。大名の領国が幕府の目の届かない場所にならないようにした。
- (1635年の改定で)参勤交代。大名は一年おきに江戸と領国を行き来し、妻子を江戸に置くことが定められた。
どう読むか
武家諸法度は、徳川家に何をもたらしたのか
- 「家康だから従う」から「法だから従う」へ。織田家や豊臣家の政権は、信長や秀吉という個人の力に支えられていた。武家諸法度は、将軍が誰であっても大名が従うべき基準を作った。
- 戦国を終わらせるルールだった。築城・同盟・軍備の自由を奪うことで、大名どうしが戦う時代を制度の面から終わらせた。
- 朝廷にも同じ形で法を示した。同じ1615年に禁中並公家諸法度を出し、天皇や公家の行動にも枠をはめた。武家と公家の両方を法で統制する姿勢は、秀吉の関白政権にはなかったものである。
法で家を支えるという発想は、徳川家が「続く家」になった理由の一つです。詳しくは徳川家と江戸幕府とはで整理しています。