勢力ページ / 関東を治めた五代100年の家

北条氏ほうじょうし

北条氏は、小田原城を本拠に関東の大半を治めた戦国大名の家です。室町幕府に仕えた伊勢氏の出身である伊勢宗瑞いせ そうずい(北条早雲)が1493年に伊豆へ討ち入ったのが始まりで、二代氏綱のときに「北条」を名乗りました。鎌倉時代の北条氏と区別して「後北条氏」「小田原北条氏」とも呼ばれます。氏康・氏政と領国を広げ、1590年の小田原合戦で豊臣秀吉とよとみ ひでよしに敗れて滅びるまで、五代およそ100年続きました。

伊豆・小田原から関東へ 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直 領国経営の先進性 1590年 小田原合戦で滅亡
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要点

  • 出発点は伊豆の一城。伊勢宗瑞が1493年に伊豆へ討ち入り、韮山城を拠点にした。守護や守護代の家ではなく、外から入って領国を築いた型の戦国大名。
  • 「北条」は二代氏綱が名乗った。1520年代、関東を治めた鎌倉北条氏の名跡を借りる形で改姓。関東支配を正当化する狙いがあったと考えられている。
  • 三代氏康で関東の大勢力に。1546年の河越合戦で勝ち、武田・今川と三国同盟を結び、検地や税制の整備で領国経営を先進的に進めた。
  • 氏政・氏直の代に最大版図、そして滅亡。関東の大半を支配したが、豊臣秀吉への対応を誤り、1590年の小田原合戦で敗れて大名家としては終わった。
  • 家は小さく残った。氏康の子・北条氏規の系統が河内狭山藩1万1千石の大名として明治まで続いた。
五代100年

北条氏は、どう関東を広げたのか

  1. 01初代 宗瑞(早雲):伊豆から相模へ

    北条早雲(伊勢宗瑞)は駿河の今川家を助ける立場から、1493年に伊豆へ討ち入って堀越公方を追い、韮山城を本拠としました。さらに小田原城を手に入れ、1516年に相模の三浦氏を滅ぼして相模をほぼ手中にします。ただし本人は生涯「伊勢」を名乗り、北条と名乗ってはいません。

  2. 02二代 氏綱:「北条」を名乗る

    北条氏綱(宗瑞の子)は本拠を小田原に定め、1520年代に名字を北条へ改めました。武蔵へ進出して江戸城を押さえ、鶴岡八幡宮を再建して関東の支配者としての姿を示します。1538年の国府台合戦で小弓公方を討ち、房総方面にも力を伸ばしました。

  3. 03三代 氏康:関東の大勢力へ

    北条氏康(氏綱の子)は1546年の河越合戦で上杉・古河公方の連合軍を破り、関東での優位を固めました。1554年には武田信玄たけだ しんげん今川義元いまがわ よしもとと三国同盟を結び、背後を固めたうえで関東経営に力を注ぎます。上杉謙信うえすぎ けんしんの小田原包囲(1561年)も持ちこたえました。

  4. 04四代 氏政・五代 氏直:最大版図と滅亡

    北条氏政(氏康の子)の代に領国は関東のほぼ全域に及びました。しかし豊臣秀吉の全国統一が進むなかで臣従を遅らせ、1590年の小田原合戦で敗北。氏政は切腹し、北条氏直(氏政の子)は高野山へ送られました。

一つの家が100年かけて段階的に領国を広げた点が、北条氏の特徴です。信長・秀吉のような急な立ち上がりとは対照的でした。

家の強み

北条氏の領国経営は、何が進んでいたのか

  • 税の仕組みを整えた。氏康の代に年貢や諸税の基準を定め、家臣の所領と負担を帳簿にまとめた。領国を数字で把握する先進的な統治だった。
  • 一門を各地の城に置いた。氏照を滝山城八王子城、氏邦を鉢形城、氏規を韮山城というように、当主の兄弟を要地の城主として配し、領国を支えた。血縁の少なかった豊臣家とは対照的である。
  • 小田原を城下町として育てた。小田原城は城と町を一つの大きな総構そうがまえで囲み、戦国最大級の城下町となった。
  • 外交で背後を固めた。武田・今川との三国同盟、のちの上杉との越相同盟など、状況に応じて同盟相手を変え、関東経営に集中できる形を作った。

氏康の領国経営は北条氏康ほうじょう うじやすのページで、小田原の総構は小田原城のページで詳しく整理しています。

1590年とその後

北条氏はなぜ滅び、そのあとどうなったのか

  • 秀吉への臣従が遅れた。関東に自前の秩序を築いていた北条氏は、秀吉の「惣無事」の命令への対応を遅らせ、上洛を引き延ばした。真田領の名胡桃城をめぐる事件が開戦の口実となった。
  • 小田原合戦で包囲された。1590年、秀吉は20万を超える大軍で小田原城を囲み、支城を次々と落とした。約3か月の籠城の末、北条氏は降伏した。
  • 関東には徳川家康とくがわ いえやすが入った。北条氏の旧領は家康に与えられ、関東入封につながった。北条氏が整えた領国の基盤は、徳川家の関東支配に引き継がれた面もある。
  • 狭山藩として存続した。氏康の子で外交を担った北条氏規の系統が、秀吉に許されて河内で所領を得、江戸時代を通じて狭山藩の大名として続いた。

小田原合戦の経過は小田原征伐で、そのあとの家康の関東支配は関東入封で読めます。

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北条氏をめぐる人物

北条氏についてのよくある疑問

なぜ「後北条氏」と呼ばれるのか?

鎌倉幕府の執権を務めた鎌倉時代の北条氏と区別するためです。小田原の北条氏はもともと伊勢氏で、二代氏綱が関東支配の正当性を示すために鎌倉北条氏の名を借りて改姓しました。血のつながりはありません。「小田原北条氏」という呼び方も同じ意味で使われます。

北条早雲は本当に身分の低い浪人だったのか?

「一介の浪人から大名になった下剋上の代表」という像は、後世に作られたものと考えられています。近年の研究では、早雲こと伊勢盛時は室町幕府の政所を担った伊勢氏の一族で、幕府や今川家とのつながりを持つ人物だったとされています。伊豆討入も、幕府の内部対立と結びついた動きとして読み直されています。

北条氏はなぜ秀吉に従わなかったのか?

一つの理由には絞れませんが、関東に独自の支配秩序を築いていた自負、徳川家康との姻戚関係への期待、家中で上洛の是非をめぐって意見が割れたことなどが重なったと考えられます。結果として臣従の時機を逸し、名胡桃城の事件を口実に攻められることになりました。

滅亡後、北条の家は完全に絶えたのか?

大名としての小田原北条氏は1590年で終わりましたが、家は残りました。氏康の子で豊臣・徳川との外交を担っていた北条氏規の系統が、河内で所領を与えられ、狭山藩1万1千石の大名として明治維新まで続いています。また、氏直は高野山から許されたのち1591年に病死しましたが、その家臣の多くは徳川家などに仕えました。

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参考にした資料