場所ページ / 道灌の関東の城が、家康と将軍たちによって幕府の中枢へ変わる

江戸城

江戸城は、徳川家康が江戸幕府を開く拠点にした城です。ただし、家康が最初に作った城ではありません。15世紀に太田道灌が築き、戦国時代には北条氏の勢力圏に入り、1590年の関東入封で家康が本拠に選びます。家康と二代秀忠・三代家光の時代に、城は堀、石垣、二の丸、三の丸、天守を持つ巨大城郭へ変わり、その周囲には城下町が広がりました。江戸城は「家康の城」として覚えるより、関東の土の城が、全国を動かす幕府と大都市の中心へ変わる場所として見ると面白くなります。

1456 - 1457 道灌が築城 1590年 家康入城 将軍たちの大改修 江戸幕府の政治中枢
江戸城跡
江戸城跡 / Wikimedia Commons / CC0

江戸城を見る要点

江戸城は、太田道灌が築いた城を家康が1590年に本拠に選び、将軍たちが大改修した城です。城だけでなく堀・道・町を一体で整え、江戸幕府と大都市・江戸の中心にしました。

  • 立場:家康より約130年前の城
  • 注目点:城と町が一緒に巨大化する
  • 次につながる:江戸幕府と皇居へ続く
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太田道灌から徳川家康へ

江戸城は、関東ルートの始まりにいる太田道灌と、終盤の徳川家康を結ぶ場所です。道灌が築いた関東の城は、北条の時代を経て、1590年には家康が新しい本拠として選びます。ここで関東の主役は、北条から徳川へ完全に入れ替わります。

  1. 太田道灌が江戸城を築き、関東の城として始まる
  2. 北条氏の関東支配を経て、小田原征伐で勢力図が変わる
  3. 家康の関東入封で、家康が江戸城を本拠に選ぶ
  4. 江戸城が幕府の政治と軍事の中心へ変わる
  5. 江戸の町割りによって、城の周りに大都市がつくられる

江戸城を最初にどう覚える?

太田道灌が築く

1456年から1457年に、扇谷上杉氏の家臣・太田道灌が築いたとされます。江戸城は家康以前からある城です。

北条の関東に入る

戦国時代には小田原北条氏の勢力圏に入ります。小田原が本拠でも、江戸は関東南西部の重要な拠点でした。

家康が本拠に選ぶ

1590年、北条氏滅亡後に家康が入城。関東を治める新しい中心として、城と城下を整え始めます。

幕府の城へ変わる

1603年以後、二の丸・三の丸・天守などを備える巨大な城郭へ変化し、幕府の政治を動かす場になります。

まずは四つの時代に分ける

  1. 1456年から1457年、太田道灌が江戸城を築く
  2. 戦国時代、小田原北条氏の勢力圏に入り、関東の拠点の一つになる
  3. 1590年、小田原征伐の後に家康が江戸城へ入る
  4. 家康が城を修築しながら、城下町の整備を始める
  5. 1603年、家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
  6. 二代秀忠・三代家光の時代を含め、将軍家と諸大名の普請ふしんで城が大きくなる
  7. 二の丸・三の丸・天守を備えた巨大城郭と、広い城下町が一体になる
  8. 明治以後は皇居となり、江戸城の土地は東京の中心に残る

この四つの時代を重ねると、江戸城は一人の名将が一気に完成させた城ではないと分かります。道灌が選んだ地形を、北条の関東支配が通り、家康が本拠として選び直し、後の将軍と大名たちが全国政権の城へ広げた。江戸城の面白さは、この長いリレーにあります。

ざっくり年表

1456 - 1457
太田道灌が江戸城を築いたとされます。道灌は扇谷上杉氏の家臣で、関東の戦乱の中で活躍した武将です。
15世紀後半
道灌の死後も、江戸城は関東の勢力争いの中で意味を持つ場所になります。
戦国時代
江戸城は北条氏の勢力圏に入り、小田原を本拠とする関東支配の一部になります。
1590年
関東入封で家康が江戸へ入り、江戸城を居城に定めます。
1603年
家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が始まります。本格的な改修が進み、二の丸・三の丸や天守が整えられていきます。
1657年
明暦の大火で天守が焼失します。天守は再建されず、天守台が今に残ります。
明治以後
江戸城は皇居となり、江戸時代の城郭と近代以後の東京が重なる場所になります。

太田道灌は、なぜここに城を築いた?

太田道灌は、関東管領上杉氏につながる扇谷上杉氏の家臣として、15世紀後半の関東で活動した武将です。国立公文書館は、道灌が1455年に家督を継ぎ、江戸に城を築き、関東平野で多くの合戦に参加した人物だと紹介しています。

江戸の地は、台地と低地、川と海に近い水辺が接する場所でした。城を置けば周辺の交通や水辺に目を配れ、関東南西部の動きを見る拠点になります。後の家康は、道灌が作った城をそのまま使ったわけではありませんが、「関東の中心を置くのに向いた場所」という判断を引き継いだと考えると、二人の時代がつながります。

道灌の城

関東の戦乱を生きるための中世の城です。最初の城郭域は、現在の本丸台地から二の丸東側あたりまでと考えられています。

家康の城

関東を治める本拠です。城の外へ町を広げ、家臣と物資を集める新しい中心にします。

将軍の城

全国の大名を動員する普請ふしんによって、幕府の権威と防御を示す巨大城郭になります。

今の皇居

江戸城の一部が現在も使われます。今見える石垣や門がすべて道灌・家康当時のものではない点も大事です。

北条の城から、徳川の城へ

家康が江戸へ入る前、江戸城は北条氏の勢力圏にありました。ここを押さえていた北条氏が小田原を本拠にしたように、家康も江戸だけを独立して見るのではなく、関東の城と町のネットワークの中で考えます。

だから1590年の江戸城は、北条から徳川への「城主交代」で終わりません。八王子城鉢形城、小田原など、北条が各地に置いた拠点が崩れた後に、関東全体の人・土地・交通をどこから結び直すか。その答えが江戸でした。

小田原城と江戸城を比べると、関東の交代が見える

小田原城も江戸城も、関東を治める大きな拠点です。ただし役割は同じではありません。小田原は北条氏が支城網をまとめて守る戦国大名の首都であり、江戸は徳川が関東を出発点に全国政治を動かす幕府の中心へ変わります。この比較を入れると、1590年の入れ替わりが城主の交代以上の変化だったと分かります。

本拠の役割小田原城は北条氏の領国と支城網をまとめる本城。江戸城は徳川の関東支配から、やがて幕府の政治全体を動かす中心へ。
城の外側小田原では総構が城下まで包み、長期の籠城を支えました。江戸では堀・橋・道・水路・町割りが、城を中心に人と物を集める仕組みになります。
各地の城との関係北条は氏邦・氏照ら一族が支城を分担しました。徳川は入封後、江戸を軸に家臣団と地域の配置を組み替えていきます。
1590年の意味小田原開城で北条の関東支配が終わり、家康の江戸入城で新しい支配の中心が動き始めます。

江戸城は、城だけを大きくしたのではない

家康が本拠にした後の江戸では、堀を掘り、土を動かし、日比谷入江を埋め立て、川や水路を整え、橋と道を作る工事が進みます。これは天守を見栄えよくする話ではありません。城の防御、物資の運搬、武家の屋敷、町人の商い、寺社の場所を同時に決める仕事です。

城と町を分けて見るより、江戸城を中心に町全体を作ったと見る方が正確です。江戸城は、巨大な城郭であると同時に、全国政権の人と物を集める装置でした。ここを押さえると、江戸の町割りの堀や日本橋が、城の脇役ではなくなる。

堀と石垣

敵を防ぐだけでなく、城の内外を区切り、大きな城郭の骨格を作ります。

橋と道

人と物資が城下へ入り、町を通って各地へ出るための動線です。

武家地と町人地

将軍と家臣の政治、商人や職人の仕事を、城の周囲に配置します。

寺社地

信仰の場であると同時に、町の空間や防災にも関わる場所として置かれます。

「大改修」は、誰が何を見せる仕事?

江戸城の大改修では、将軍家だけが工事をしたわけではありません。全国の大名が普請ふしんに動員され、石垣や堀、城郭を整える負担を担いました。巨大な城が完成することは、江戸が幕府の政治中枢であることを示すと同時に、将軍が諸大名を動かせるという権力の見せ方でもありました。

つまり江戸城は、戦いに備える城であると同時に、幕府の仕組みを目に見える形にする場所です。家康の一代だけでなく、秀忠・家光までたどると、なぜ江戸城があれほど大きくなったのかが分かります。

ここだけ覚える

  • 江戸城は1456年から1457年に太田道灌が築いた、家康以前からある城。
  • 戦国時代には北条氏の勢力圏に入り、1590年に家康が北条滅亡後の関東で本拠に選んだ。
  • 江戸城は、城だけでなく堀・道・水路・町と一体で巨大化した。
  • 1603年以後、二の丸・三の丸・天守を備える幕府の政治中枢へ変わった。
  • 1657年に天守は焼失し再建されなかったが、江戸城の土地は明治以後に皇居となり、今も東京の中心に残る。

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10問クイズ

Q1. 江戸城を最初に築いたとされる人物は?

A. 太田道灌です。

Q2. 太田道灌が江戸城を築いたとされる時期は?

A. 1456年から1457年です。

Q3. 家康が江戸城を本拠にした年は?

A. 1590年です。

Q4. 家康の関東入封の前提となった北条氏最後の戦いは?

A. 小田原征伐です。

Q5. 江戸城を中心に進んだ、城下を整える仕事を何という?

A. 江戸の町割りです。

Q6. 江戸城の大改修で整えられた郭を二つ挙げると?

A. 二の丸と三の丸です。

Q7. 家康が征夷大将軍になった年は?

A. 1603年です。

Q8. 江戸城の天守が焼失した大火は?

A. 1657年の明暦の大火です。

Q9. 焼失後の天守は再建された?

A. いいえ、再建されませんでした。

Q10. 江戸城は明治以後、何になった?

A. 皇居です。

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