要点
- 改易は「家を消す」処分。領地も城も家臣団も失い、当主は他家に預けられるか、流罪・切腹になることもあった。家名が残っても大名ではなくなる。
- 減封・転封は「家を残したまま動かす」処分。減封は石高を減らす(毛利120→37万石など)、転封は別の土地へ移す(家康の関東入封など)。転封は加増を伴うこともあった。
- 関ヶ原後に最大規模で行われた。西軍の改易88家・減封5家で、没収された領地は600万石を超えるとされ、東軍大名への加増に回された。
- 理由は戦の敗北だけではない。武家諸法度違反(福島正則の無断修築)、後継者がいない(無嗣断絶)、家中の騒動(御家騒動)、幕府への不敬など、江戸時代には法や規律の違反が理由になった。
- 浪人を生み、次の戦いの火種になった。改易で主を失った武士は浪人となり、大坂の陣の豊臣方には改易大名の旧臣が多く集まった。
比較
改易・減封・転封の違い
| 改易 | 減封 | 転封 |
| 何が起きる | 領地・城・身分をすべて失う | 石高が減る。本拠を移されることも多い | 別の土地へ移る。石高は増える場合も減る場合もある |
| 家はどうなる | 大名としては消える。当主は預かり・流罪・切腹も | 大名として続く | 大名として続く。土地との縁は切れる |
| 家臣は | 主を失い浪人に | 減った石高に合わせて一部が離れる | 主に従って移る(旧臣を置いていくことも) |
| 代表例 | 宇喜多秀家(関ヶ原)、福島正則(1619)、加藤忠広(1632) | 毛利輝元(120→37万石)、上杉景勝(120→30万石) | 徳川家康(東海5か国→関東250万石、1590)、前田利家(能登→加賀、1583) |
理由
大名はどんな理由で改易されたのか
- 戦いに敗れた。関ヶ原の西軍、大坂の陣の豊臣方。敗者の領地を勝者に配り直すのは戦国以来の原則だった。
- 法度に違反した。福島正則は広島城を無断で修築したとして1619年に改易された。武家諸法度が「法」として実際に使われた最初の大きな例。
- 後継者がいなかった(無嗣断絶)。当主が跡継ぎを決めないまま死ぬと、家は絶えたとして改易された。江戸初期の改易の多くがこれで、末期養子(死の間際の養子)が認められるまで続いた。
- 家中が割れた(御家騒動)。加藤忠広(清正の子)は家中の混乱を理由に1632年に改易され、肥後は細川氏に与えられた。
- 幕府に逆らった、または疑われた。豊臣家との関係、キリシタン、参勤の怠りなども理由になった。
影響
改易は、戦国の終わりにどう関わったか
- 関ヶ原後の改易が、江戸時代の地図を作った。西軍の領地を東軍に配り、徳川の一門・譜代を関東と東海に、外様を西国と東北に置く配置はこのときにできた。
- 浪人が大坂城に集まった。改易された大名の旧臣(真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親など)が大坂の陣で豊臣方の主力になった。改易は豊臣家の最後の軍を作ったともいえる。
- 「法で家を消せる」ことが戦国を終わらせた。戦国では家を滅ぼすには戦が必要だった。幕府が法と手続きで大名を改易できるようになったことは、戦のない秩序の前提になった。
改易された大名の一覧は関ヶ原の戦い、改易後の流罪は流罪で整理しています。