要点
- 毛利輝元が本拠を移すために築いた。山城の郡山城では中国8か国112万石の大名の本拠として手狭だったため、輝元は海に近い太田川の河口に新しい城を築いた。
- 大坂城を手本にした。輝元は秀吉の大坂城や聚楽第を見て築城を決めたとされる。平地に天守・堀・城下町を一体で整えた近世城郭の早い例である。
- 「広島」の名はここから。築城にあたって名づけられた地名で、毛利氏の祖・大江広元の「広」と、築城に関わった福島元長の「島」を合わせたとする説などがある。
- 福島正則は城のせいで改易された。関ヶ原後に入った福島正則は、1619年、台風で壊れた城を幕府の許可なく修築したとして改易された。武家諸法度が実際に適用された例である。
- 浅野氏の城として明治まで。正則のあと浅野長晟が入り、浅野氏が12代にわたって広島藩主を務めた。天守は原爆で倒壊し、1958年に再建された。
広島城は、どう使われてきたのか
- 011589年:築城開始
毛利輝元が太田川の三角州に城の建設を始める。
- 021591年:輝元の入城
郡山城から本拠を移す。城下町の整備が進む。
- 031600年:関ヶ原後、毛利氏が去る
毛利氏は周防・長門に減封され、福島正則が入城。
- 041619年:福島正則の改易
無断修築を理由に幕府が正則を改易。浅野長晟が入城する。
- 051619〜1871年:浅野氏の城
浅野氏が広島藩主として明治まで城主を務める。
- 061945年:原爆で天守倒壊
天守・櫓などが倒壊した。
- 071958年:天守再建
鉄筋コンクリートで天守が再建され、現在は博物館となっている。
広島城は、毛利氏にとって何だったのか
- 「山の家」から「海の家」へ。毛利氏は安芸の山間の郡山城を本拠とする国人から出発した。広島城への移転は、瀬戸内の海運を押さえる大大名への変化を示している。
- 築いてすぐに失った城だった。輝元が入城してから関ヶ原までわずか9年。毛利氏は自ら築いた本拠を失い、萩で城を築き直すことになる。
- 城の歴史が大名の交代を映す。毛利→福島→浅野という城主の変化は、関ヶ原と武家諸法度という江戸幕府の仕組みが大名を動かした流れそのものである。