平戸は、何を動かした都市か
九州北西端の平戸島にあり、平安期から中国・朝鮮との交易の中継地であった。遣唐使・遣隋使が往復した要路にもあたる。平戸城は、平戸瀬戸を自然の要塞に見立てた海城として築かれた。
天文11(1542)年、松浦隆信(道可)は明の海商・王直を平戸にかくまい、密貿易を行った。以後、京都・堺・博多の商人も訪れるようになる。1550年にはポルトガル船が入港し、貿易の実利を期待した隆信がザビエルの布教を許し、南蛮貿易とキリスト教布教が重なった。
- 現在地:長崎県平戸市
- 戦国での役割:中国・朝鮮交易の中継地を足場に、ポルトガル船とオランダ船を迎え入れた、長崎以前の国際貿易港
- 読みどころ:城・港・市場・寺社を、支配者だけでなく都市の働きとして見る。
支配者が替わると、都市の何が変わる?
永禄5(1562)年、大村純忠の招きでポルトガル船が横瀬浦(今の長崎県西海市)にも入港するようになったと伝わるが、平戸は交易港として終わらない。1609年にはオランダ船2隻が入港してオランダ商館が置かれ、1613年にはイギリス商館も置かれる。慶長16(1611)年には崎方町の町屋22軒を壊して商館の倉庫を建てるなど拡張が続き、1641年に長崎出島へ移るまでの約33年間、平戸は日本で唯一のオランダ貿易港であった。
東アジア航路
中国・朝鮮と日本列島を結ぶ海の中継地だった。
松浦氏の力
海上交易の富が、地域領主の軍事・政治基盤を支えた。
信仰と貿易
禁教下の寛永17(1640)年、オランダ商館の建物に西暦が刻まれていたことが問題視され、幕府は破壊を命じた。信仰への警戒が、貿易施設のあり方まで左右した。
城だけを見ないための三つの視点
人が集まる理由
武将の居城だけでは町は続かない。港、川、街道、寺社、市場のどれが人と物を呼んだのかを確かめる。
支配の届き方
城下・寺内町・港町では、家臣、町衆、寺社、商人が違う役割を持つ。誰が何を管理したのかを見る。
転機の後
合戦や政変で領主が替わった後、道・川・市場・城下がどう組み替えられたかを追うと、都市の変化が見える。
戦国期の平戸 年表
松浦隆信(道可)が明の海商・王直を平戸にかくまい、密貿易を行う。
南蛮貿易とキリスト教布教が始まる。
大村純忠の招きで、横瀬浦(今の長崎県西海市)にもポルトガル船が入港するようになったと伝わる。
オランダ船2隻が入港し、日本で唯一のオランダ貿易港になる。
禁教下で商館の破壊を命じられた後、貿易の窓口は長崎出島に移り、平戸のオランダ貿易は約33年で終わる。
「平戸」と「肥前国」は同じではない
平戸は人・物・権力が集まる都市、肥前国はより広い地域を表す国である。都市だけでは周辺の国衆や生産地が見えず、国だけでは城下・港・市場の具体的な働きが見えにくい。この二つを行き来すると、戦国の地域が立体的に読める。