要点
- 少弐氏の重臣だった。龍造寺氏の分家に生まれ、肥前守護・少弐氏に仕えた。大内氏との戦いで功を立て、本家をしのぐ力を持った。
- 大内氏に通じたと疑われた。少弐氏が大内氏に押されるなか、家兼は大内氏と和睦する道を探った。これが少弐氏家臣・馬場頼周の警戒を招いた。
- 一族の多くを殺された。1545年、馬場頼周の謀略で龍造寺一族の当主や子・孫の多くが討たれた。家兼は筑後へ逃れ、家は滅びかけた。
- 93歳で兵を挙げた。1546年、筑後の蒲池氏の支援を得て挙兵し、馬場頼周を討って佐賀に戻った。
- 隆信を後継に指名した。再興の直後に死去する際、出家していた曽孫の隆信を還俗させて後継に定めた。
何をした人物か
家兼は龍造寺氏の分家・水ヶ江龍造寺家に生まれ、肥前守護・少弐氏に仕えました。16世紀はじめ、少弐氏は北九州で大内氏と争い続けており、家兼はその戦いで功を立てて、本家をしのぐ力を持つようになります。一方で家兼は、大内氏に押される少弐氏の将来を見て、大内氏との和睦も探っていました。
この動きを、少弐氏の家臣・馬場頼周は裏切りとみなしました。1545年、頼周は龍造寺一族を謀略で討ち、当主をはじめ家兼の子や孫の多くが殺されます。家兼は筑後の蒲池氏を頼って逃れました。龍造寺氏はこのとき滅びかけたといってよい状態でした。
翌1546年、家兼は蒲池氏の支援を受けて兵を挙げ、馬場頼周を討って佐賀に戻りました。90歳を超えての挙兵です。家兼は再興の直後に死去しますが、その際、出家していた曽孫の隆信を還俗させ、後継に指名しました。隆信はのちに少弐氏を滅ぼし、龍造寺氏を九州北部の大勢力に育てます。戦国大名龍造寺氏の出発点は、この老将の執念にありました。
年表で追う
- 011454年:誕生
龍造寺氏の分家・水ヶ江家に生まれる。
- 0216世紀はじめ:少弐氏の重臣として活躍
大内氏との戦いで功を立てる。
- 031545年:一族の虐殺
馬場頼周の謀略で一族の多くを失い、筑後へ逃れる。
- 041546年:挙兵・再興
93歳で兵を挙げ、馬場頼周を討って佐賀に戻る。
- 051546年:死去
隆信を後継に指名して死去。
家兼を読むときに気をつけたいこと
- 年齢には諸説ある。1454年生まれとすると挙兵時に93歳になるが、生年を疑う見方もあり、極端な高齢は伝承の誇張を含む可能性がある。
- 虐殺の経緯は後世の記録による部分が大きい。馬場頼周の謀略とされるが、少弐氏当主の関与の程度など細部は確かめられていない。
- 「剛忠」は出家後の法名。史料では家兼と剛忠の両方で現れる。