1454〜1546年 / 龍造寺氏の再興者・少弐氏の重臣・隆信の曽祖父

龍造寺家兼りゅうぞうじ いえかね

龍造寺家兼は、肥前の国人・龍造寺氏の一族で、出家後の名から剛忠ごうちゅうとも呼ばれます。龍造寺隆信の曽祖父にあたります。肥前守護・少弐氏の重臣として大内氏との戦いで活躍しましたが、1545年、少弐氏の家臣・馬場頼周の謀略で一族の多くを殺され、筑後へ逃れました。翌1546年、90歳を超える高齢で兵を挙げて馬場氏を討ち、佐賀に戻ります。同年、曽孫の隆信を後継に指名して死去しました。龍造寺氏が戦国大名になる道は、この老将の再興から始まります。

隆信の曽祖父 1545年 一族の多くを殺される 1546年 93歳で挙兵・再興 隆信を後継に指名

要点

  • 少弐氏の重臣だった。龍造寺氏の分家に生まれ、肥前守護・少弐氏に仕えた。大内氏との戦いで功を立て、本家をしのぐ力を持った。
  • 大内氏に通じたと疑われた。少弐氏が大内氏に押されるなか、家兼は大内氏と和睦する道を探った。これが少弐氏家臣・馬場頼周の警戒を招いた。
  • 一族の多くを殺された。1545年、馬場頼周の謀略で龍造寺一族の当主や子・孫の多くが討たれた。家兼は筑後へ逃れ、家は滅びかけた。
  • 93歳で兵を挙げた。1546年、筑後の蒲池氏の支援を得て挙兵し、馬場頼周を討って佐賀に戻った。
  • 隆信を後継に指名した。再興の直後に死去する際、出家していた曽孫の隆信を還俗させて後継に定めた。
人物

何をした人物か

家兼は龍造寺氏の分家・水ヶ江龍造寺家に生まれ、肥前守護・少弐氏に仕えました。16世紀はじめ、少弐氏は北九州で大内氏と争い続けており、家兼はその戦いで功を立てて、本家をしのぐ力を持つようになります。一方で家兼は、大内氏に押される少弐氏の将来を見て、大内氏との和睦も探っていました。

この動きを、少弐氏の家臣・馬場頼周は裏切りとみなしました。1545年、頼周は龍造寺一族を謀略で討ち、当主をはじめ家兼の子や孫の多くが殺されます。家兼は筑後の蒲池氏を頼って逃れました。龍造寺氏はこのとき滅びかけたといってよい状態でした。

翌1546年、家兼は蒲池氏の支援を受けて兵を挙げ、馬場頼周を討って佐賀に戻りました。90歳を超えての挙兵です。家兼は再興の直後に死去しますが、その際、出家していた曽孫の隆信を還俗させ、後継に指名しました。隆信はのちに少弐氏を滅ぼし、龍造寺氏を九州北部の大勢力に育てます。戦国大名龍造寺氏の出発点は、この老将の執念にありました。

年表

年表で追う

  1. 011454年:誕生

    龍造寺氏の分家・水ヶ江家に生まれる。

  2. 0216世紀はじめ:少弐氏の重臣として活躍

    大内氏との戦いで功を立てる。

  3. 031545年:一族の虐殺

    馬場頼周の謀略で一族の多くを失い、筑後へ逃れる。

  4. 041546年:挙兵・再興

    93歳で兵を挙げ、馬場頼周を討って佐賀に戻る。

  5. 051546年:死去

    隆信を後継に指名して死去。

注意点

家兼を読むときに気をつけたいこと

  • 年齢には諸説ある。1454年生まれとすると挙兵時に93歳になるが、生年を疑う見方もあり、極端な高齢は伝承の誇張を含む可能性がある。
  • 虐殺の経緯は後世の記録による部分が大きい。馬場頼周の謀略とされるが、少弐氏当主の関与の程度など細部は確かめられていない。
  • 「剛忠」は出家後の法名。史料では家兼と剛忠の両方で現れる。
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参考にした資料