事件ページ / 1543年・大隅国 種子島

鉄砲伝来てっぽうでんらい

鉄砲伝来とは?

1543年、種子島に漂着した船のポルトガル人から島主が火縄銃ひなわじゅう二挺を買い、翌年島で複製され、堺・根来・国友へ広がった。上陸したのは種子島の南端、今の鹿児島県南種子町の海岸で、島主のいた赤尾木あかおぎ(今の西之表市)へ船が入ったのは二日後でした。

1543年(天文12年)8月25日、種子島の南端・西村の小浦(今の南種子町)に、乗員100人あまりの大船が着きます。
9月9日、赤尾木での試射を見た島主・種子島時堯ときたかが、火縄銃二挺を買い取ります。
島の鍛冶が模造しますが、銃底を塞ぐネジが作れません。翌1544年、再び来た船の鍛冶から八板金兵衛清定やいたきんべえきよさだが技術を学びます。
根来寺の求めに応じて時堯が一挺を贈り、堺の商人・橘屋又三郎は島に住み込んで製法を学びます。
後世の『国友鉄炮記てっぽうき』は、将軍足利義晴の命で近江・国友の鍛冶が鉄砲を作り、1544年に献上したと伝えます。
1606年(慶長11年)、種子島久時の依頼で僧・文之玄昌が『鉄炮記』を書き、伝来の経緯が文章に残ります。

漂着——砂に字を書いて、船の正体がわかった

種子島は大隅国に属する日本の南の端の島で、琉球王国と境を接し、明へ向かう遣明船けんみんせん幕府や大名が明へ送った貿易船)が出航前の支度をする島でもあった。島を治める種子島氏は鎌倉時代から続く家で、前年の天文11年(1542)には恵時と子の時堯(「時尭」とも書く)のあいだで内紛が起きたばかりだった。父子がそのあとどう折り合ったかは記録に無いが、鉄砲が来たときには島主の座にあった子の時堯と父の恵時が、ともに船を迎えている。

1543年8月25日 大船が、島の南端に着いた

大船が着いたのは、1543年8月25日、種子島の南端、門倉岬かどくらみさきのあたりにある西村の小浦(今の鹿児島県南種子町大字西之)だった。乗っていたのは100人あまりで、どこの国の船かわからず、言葉も通じなかった。

筆談 村を治める織部丞が、砂に字を書いた

西村を治める織部丞おりべのじょう(西村の村を任されていた人)は、漢字に通じていた。船中にいた中国の儒者じゅしゃ(学問を修めた人)と出会うと、杖で浜辺の砂に字を書き、どこの国の人かと尋ねた。相手は、乗員が西南蛮(ここではポルトガルのこと)の商人だと答えた。

五峯 筆談の相手は、学問もある倭寇の頭目だった

『鉄炮記』が儒者と呼ぶこの筆談の相手は、五峯ごほうと名乗った。中国の記録に「五峯船主」と出てくる王直のことで、学問を修めた人であると同時に、日本とシャム(今のタイ)を往復した倭寇わこう(中国や朝鮮の沿岸を襲った海の勢力)の頭目でもあった。着いた船そのものは中国船で、それに乗ってきた商人がポルトガル人だった。

二挺の購入——島主が、値を問わずに買った

島主の時堯は父の恵時とともに、織部丞から知らせを受けると小舟数十を出し、8月27日、船を島の東岸の港・赤尾木へ回した。赤尾木の慈遠寺じおんじにいた僧・住乗院が五峯と筆談し、商人の長が二人いることがわかった。乗っていたポルトガル人は、三人とされる。時堯がその商人と会ったのは、赤尾木城(島主の城)だった。

試射 1543年9月9日、百歩の的に当たった

時堯は1543年9月9日を選び、百歩の距離に的を置かせた。黒色火薬(木炭・硫黄・焔硝えんしょうを混ぜた薬)と鉛の弾を込めて放つと、ほぼ狙いどおりに当たった。居合わせた人々は「まず驚き、次に恐れた」と伝わる。

購入 買ったのは二挺、学ばせたのは火薬

時堯は試射のあと、価格が高いことを顧みず鉄砲二挺を買い取り、家宝とした。『鉄炮記』は金額を記さず、鹿児島県は現在のお金でおよそ1億円にあたると説明している。同時に家臣の篠川小四郎に、火薬を調合する方法を学ばせた。

二人の商人 名前が、漢字で書き留められた

商人の長の名は、1543年の筆談で「牟良叔舎ムラシュクシャ」「喜利志多侘孟太キリシタダマウタ」と漢字で書き留められた。ポルトガル人名のフランシスコ、クリストヴァン・ダ・モッタとみられている。

底が塞げない——ネジだけが、真似できなかった

時堯は買った二挺を島の鍛冶に手本として渡し、模造させた。島には刀鍛冶が二十数軒あり、鉄を打つ技術には困らなかった。それでも銃底だけは、作れなかった。

模造 形は似たが、底が塞げなかった

時堯は1543年、鍛冶数名に鉄砲をよく観察させ、ひと月かけて模造させた。外形は似たものができたが、銃身の底を塞ぐ方法だけがわからなかった。底は尾栓びせん(銃身の後ろを塞ぐネジ)で閉じる。ネジを切る技術は、それまで日本列島に無かったと考えられている。

翌年 再来した船に、鍛冶が乗っていた

翌1544年、ポルトガル商人の船が種子島の東岸・熊野浦(今の中種子町坂井)に再び来た。その中に鍛冶が一人いた。時堯は八板金兵衛清定に学ばせ、清定は月日をかけてネジで底を閉じる方法を身につけた。島で作られた最初の銃は、伝来から8か月ほど後のこの年のものと伝わる。

検証 若狭の話は、系図が伝える伝承

八板家の系図は、清定が娘の若狭わかさを1543年にポルトガル人に嫁がせ、翌年、若狭が鍛冶とともに再来の船に乗って戻ってきたことで技術を得たと伝え、若狭が異郷で詠んだという和歌を載せる。系図が伝える話として読む。

国産 一年あまりで、数十挺を作った

島の鍛冶は1544年からの一年あまりで、鉄砲数十挺を新たに作った。鉄砲の求めは急に増え、島の刀鍛冶は次々に鉄砲鍛冶へ転じた。

紀伊と堺へ——一挺の銃と、一人の商人が運んだ

島の外から最初に鉄砲を求めてきたのは、紀伊国の根来寺だった。境内に多くの院家いんげ(寺の中の有力な僧の家)を抱える大寺で、その一つ杉坊すぎのぼうの主が鉄砲を欲した。同じころ、和泉国堺の商人も島に来ている。

紀伊 根来寺の求めに、一挺を贈った

杉坊の使者として島に来たのは、杉坊の主の兄にあたる津田算長(津田監物けんもつ)だった。時堯は算長に一挺を託し、火薬の製造法と点火の方法もあわせて教えた。算長は天文13年(1544)3月に紀伊へ帰ったと伝わる。

本州最初 根来坂本の鍛冶が、複製した

算長は紀伊へ帰ると、根来寺の坂本に住む堺の鍛冶・芝辻清右衛門に、持ち帰った一挺を手本に鉄砲を作らせた。これが本州で最初の鉄砲と言われている。清右衛門はのちに技術を堺へ持ち帰ったと伝わり、堺の鉄砲づくりの起源のひとつとされる。

鉄砲又 堺の商人が、一〜二年島に住み込んだ

和泉国堺の商人・橘屋又三郎は、伝来ののち種子島に一〜二年住み込んで鉄砲を学んだ。堺へ帰ると、誰も本名を呼ばず「鉄砲又」と呼んだ。持ち帰ったのは、作り方と撃ち方の両方だった。

なぜ堺か 商人が、職人を組織した

堺で鉄砲が大量に作れるようになったのは、今井宗久(堺の商人)ら堺商人が職人たちを組織したことによる。安土桃山時代には、堺は日本でも有数の鉄砲生産地になっていた。

近江へ——国友の話は、後世の記録が伝える

近江国坂田郡の国友(今の滋賀県長浜市の村)は、のちに堺と並ぶ二大生産地の一つになる土地である。ここへ鉄砲がどう伝わったかを語るのは、『国友鉄炮記』という国友助太夫家の古文書で、寛永10年(1633)の日付を持つが、実際に書かれたのはさらに後とみられている。

将軍の命 義晴が、細川晴元に鍛冶を探させた

『国友鉄炮記』によれば、将軍足利義晴の意向で、細川晴元ほそかわ はるもとが国中の鍛冶を探した。見つかったのが国友の鍛冶で、国友善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫の四名が手本の鉄砲を預かり、徹夜で銃身二挺を作った。将軍がその手本をどこから手に入れたかは、記録に無い。

大根 欠けた小刀が、ネジの謎を解いた

国友でも、わからなかったのは「捻云物」(尾栓のネジ)の作り方だった。鍛冶の内次郎助が、刃先の欠けた小刀で大根を刳り貫いたところ、欠けたとおりの跡が大根に残った。この道理でネジができたという。

1544年 六匁玉の二挺を、将軍へ献じた

国友の鍛冶は天文13年(1544)8月12日、六もんめ玉(弾の重さが六匁)の鉄砲二挺を義晴へ献上した、と同書は記す。国友への伝来の年として言われる1544年は、この記述によっている。

記録される——六十年あとに、はじめて書かれた

刀や槍が主な武器だった戦の形は、この道具を境に変わっていく。ただし、その経緯を書いた文章は、日本では伝来から六十年あまり後まで存在しなかった。種子島、根来と堺、国友の三つの土地にはそれぞれの記録があり、三つの土地の記録どうしは矛盾せず、地域ごとの伝承として並んでいる。

1606年 依頼して、書かせた文章だった

『鉄炮記』は慶長11年(1606)9月9日、時堯の子・種子島久時の依頼で薩摩の僧・文之玄昌が書いた。鉄砲を使い始めてから「六十年あまり」がたったと記し、鉄砲のはじまりが種子島にあることは明らかだと結ぶ。国内の記録としては唯一信頼できる史料と評価されている。

検証 伝来の年には、二つの説がある

根本の史料は二つある。ポルトガル人アントニオ・ガルヴァンの『新旧発見記』(1563年)は1542年とし、『鉄炮記』は天文12年8月25日(1543年9月23日)とする。太平洋戦争のころは1542年説が有力で、400年の記念式典は1942年に種子島で開かれた。1946年に『鉄炮記』を重んじる1543年説が示されてから定説になったが、今も1542年説を採る研究者は少なくない。

検証 「種子島が最初」も、確定ではない

最近の研究では、九州や中国地方などにも火縄銃がもたらされたと言われるようになりつつあり、最初の地を阿久根(今の鹿児島県阿久根市)や琉球とする説もある。ただし、伝来の経緯を記した記録がしっかり残っているのは種子島だけである。伝来の13年後に来日した明の鄭舜功ていしゅんこうも、鉄砲はもとポルトガルから出て、中国の商人が種子島の人に伝えたものだと書き残している。当時、鉄砲そのものが「種子島」とも呼ばれた。

遺産 二大生産地は、堺と国友になった

国友の鉄砲鍛冶は、堺と並ぶ火縄銃の二大生産地として、浅井氏羽柴秀吉はしば ひでよしに保護されながら量産の体制を広げた。秀吉が今浜(長浜)に城を築いた理由の一つも、姉川の南岸に住む国友の鍛冶を掌握しやすいことだったとされる。

遺産 戦場で、数をそろえて使われた

1575年の長篠の戦いでは、大量の鉄砲が柵の陣地と組み合わされた。設楽原(長篠の戦いの決戦地)で出土した鉄砲玉の鉛の産地を調べると、国内産のほか中国・朝鮮、遠くはタイの鉱山のものが含まれていた。銃だけでなく、弾の材料の鉛まで海外から集められていた。

遺産 種子島氏は、鉄砲隊を率いて戦った

天文17年(1548)前後に島津貴久の妹が時堯に嫁ぎ、種子島氏はその後、島津方として耳川の戦い(1578年)や沖田畷の戦い(1584年)に鉄砲隊を率いて従軍した。

鉄砲伝来の疑問に答える

その船は、どこへ行くはずだった?

ポルトガル側の記録『新旧発見記』は、シャム(今のタイ)から中国へ向かう途中に暴風雨に遭い、北緯32度の島に流れ着いたと記す。この記録が、伝来を1542年とする説の根拠になっている。

時堯が買った二挺は、今も残っている?

残っていない。買った二挺のうち一挺は紀州の津田監物へ贈られたのち焼失し、島に残った一挺も明治10年(1877)の西南戦争のとき、鹿児島の種子島屋敷で焼けた。翌年、筆談をした織部丞の子孫にあたる西村時彦が、西村家に伝わっていた銃を種子島家へ献上した。今「ポルトガル初伝銃」として鹿児島県の文化財になっているのはその銃で、銃身は伝来のもの、木の銃床は後に作って付けたものである。

関東には、どう伝わった?

記録によって、二つの筋がある。『国友鉄炮記』は、相模の山伏・玉粒坊(山で修行する僧)が一挺を買って北条氏康ほうじょう うじやすへ土産に献上したのが、小田原で鉄砲が知られた最初だったと記す。『鉄炮記』のほうは、遣明船が帰路に伊豆へ漂流し、乗っていた種子島家の家臣・松下五郎三郎が撃ってみせたのが関東への入口だったとする。どちらが先かは、史料では確定できない。

現地に何か残っている?

漂着地とされる島の南端・門倉岬(南種子町)に、鉄砲伝来紀功碑と御崎神社が建つ。時堯がポルトガル人と会った赤尾木城の跡は西之表市の旧榕城中学校の場所で、種子島時堯像が立つ。同じ西之表市の鉄砲館(種子島開発総合センター)にポルトガル初伝銃と伝八板金兵衛作の国産第1号銃があり、市街のはずれの高台には金兵衛と若狭の忠孝碑と墓が残る。

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参考にした資料